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Vol.011【号外】意外な知り合い - その壱

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  • 2022年6月5日
  • 読了時間: 6分

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.011【号外】意外な知り合い その壱


意外な知り合い


5/28、テレビで重信房子が出所したニュースを聞いて、村上にLINEニュースを伝えた。

この話については、村上本人があまり話したがらないため、私が聞き知っていることとして記述することとする。話題の人の話なので、この機会に記しておく。



村上は1967~1970年の間は福島県の須賀川に行っていたが、ある日、母親から「重信さんが捕まった」と電話があって驚いた。確か彼女は大学に行っていたはずだったが、その後、何があったのかわからなかった。。。



中学時代の3年間ずっと同じクラスで、しかも、彼女が誰の隣になりたいか、何故かいつも村上を名指しでリクエストするので3年間ずっと隣同士で、いつも窓側の一番後ろの席だった。


彼女の実家は世田谷区上町駅近くで、食品、雑貨、乾物の販売小売店を営んでいた。普段は彼女の母親が店を切り盛りしていた。彼女に誘われて一緒に勉強しようと言われる時は、大抵彼女の母親は用事で不在の時で、店の奥の部屋で店番を兼ねていた。


中学時代の彼女は人気者で、成績も良かった。常にクラスで一番~三番以内だった。しかし、普段から勉強している姿は見かけなかった。勉強しようと誘ってきた時も、結局話をするばかりで勉強はしていなかった。学校の授業だけでテストで良い点を取っているとしか思えなかった。頭の回転が早く、何に対しても反応の良い女性だった。クラスでもあまり静かにしていない。むしろ、うるさいくらいだったが、授業には積極的に挙手して参加していた。


彼女の趣味は歌謡曲で、特に島倉千代子が大好きで、時々、授業の間に歌っては皆を喜ばせていた。また、詩を書くのが好きで、いつも大学ノートに詩を書いては、村上のカバンに勝手に入れて「翌日までにコメントして返せ」と言われ、何度書かされたか。。。と言っていた。


桜木中学校を卒業すると、村上は川崎の法政二高へ進学したが、彼女は世田谷区にある都立の第一商業高校へ進んだ。この学校はそろばんばかりで飽きたと常に不満を口にしていた。高校の時に、村上の実家は世田谷区から町田市の中町に引っ越した。続いて、彼女の家も同じく町田の森野に引っ越してきた。母親同士も交流があったため、徒歩で10分位の距離のお互いの家を行き来するようになったし、村上が不在でも彼女は町田の家に勝手に上がり込んで待ち、村上の母親と話し込むこともしばしばだった。ある時は、村上の同級生が彼女を好きになって、なんとかしてほしいと頼まれたので、彼女に彼と付き合えと話したら、激怒して村上が不在なのに町田の家に怒鳴り込んできたこともあった。


その後、高校を卒業してから村上は法政大学に行ったが、彼女は野田醤油(キッコーマン)に就職して、半年で会社を辞めた。理由は「サラリーマンの男たちが何も行動せず、個性がない。会社人間で面白くない。」とのことだった。そして、自分も大学に行くと言って、明治大学に入学した。そして、在学中に少しずつ学生運動にのめり込んでいき、最後は赤軍派を結成した。


彼女は明治大学から飯田橋にある村上の法政大学までよく会いに来た。そして、外濠公園のお堀沿いの土手の上で話し込んだ。そして、ある時、中国の話しをしはじめたが、村上の父親は刑事で「学生運動に参加したりしたら勘当だ」と言われていたし、そもそも政治に興味がなく、演奏活動ばかりしていたので「中国については何も知らないし、興味がない」と返事をすると「あなたは何も分かっていない!」と言って怒り出した。


大学時代の村上はギターにのめり込み、彼女は更に学生運動にのめり込んでいった。そして、彼女は明治大学の仲間と赤軍派の立ち上げへ向かっていった。その頃から二人の関係も疎遠になった。


村上が不思議に思っていることがあると話すのは、須賀川で人事、総務を担当していた当時のことで、共産系のグループを見つけ出そうと、どこの会社も躍起になっており、水面下で調査していたが、なかなか見つけ出せなかったそんなある時、経理課の男女二人が人があまり来ない印刷室で村上に近づいてきて「村上さん、あの本読んだわよ」と笑顔で話しかけてきた。「なんのこと?」と聞き返すと「民青という本に投稿したでしょう?重信さんのこと」と言われて、どうして自分と彼女が知り合いであることを知っているんだろう?と思った。「あれ、村上さんが書いた手記でしょう?」と言われたが、そんなもの書いたこともないし、そんな雑誌についても聞いたこともなかった。偶然にも彼ら二人が会社がマークしていた民青だとわかった。それにしても、なぜ村上の名前を騙ったのだろうか?


民青とは、日本民主青年同盟で千駄ヶ谷の共産党本部のそばで共産党の若者の組織で、会社としては一番接触してほしくないメンバーだった。ひょんなことで二人の民青の正体がわかったが、少なくとも自分の働いている会社にも民青が既に入り込んでいたことはショックでもあったが、だからと言って、それを理由に会社は彼らを解雇することもできなかったし、村上の在職中に何事も起こらなかったという。


しかし、当時の民青は勢いがあった。今となっては誰も口に出さないが、Wikipediaによると、民青出身の著名人として、ザ・タイガースのドラマー 瞳みのる氏、シンガー・ソングライターの奥田民生氏、ベルサイユのばらの漫画家、池田理代子氏、経済学者を名乗る竹中平蔵氏、共産党系の議員の多く。。などの人たちは、皆、若い頃は民青として活動していた。びっくりするが、あの安倍晋三、小泉純一郎元総理の経済指南役の竹中氏も民青だった、つまり共産党系。それが今や仮面を被って民主主義経済を謳っていることになる。


話を戻すと、村上が社会人になってからは、彼女のニュースは本人からではなく、テレビやニュースで知らされるようになり、テルアビブまでどのような経緯を辿ったのか、ハイジャックの田宮とどう知り合ったのか、テルアビブのバーグ空港の乱射事件等々、わからないことだらけだった。。


そして、村上が渡米した後は、一度、会いたいと言われ、ニューヨークで会ったことがあった。もちろん日本からは指名手配中だった。その時に会ったのが、最後だったという。


また、世界は狭いもので、村上が重信房子と知り合いだけでも驚くが、ロスアンジェルスでアパレルのコンサルをやっていたこともあり、紹介されたモデルがアメリカのスリムジーンズを探しているということで、アメリカのメーカーを紹介したことがあった。そのモデルの姉が恋人とロスアンジェルスに住んで居るので、姉に会いに行きたいと言っていた。実はその姉の恋人というのが赤軍メンバーで手配されている人で逃亡してロスアンジェルスに潜伏していたのだったらしい。。。

 
 
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