Vol.008 アメリカ留学の準備に心を踊らせた
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- 2022年5月28日
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更新日:2022年6月6日
村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.008 アメリカ留学の準備に心を踊らせた
日本に帰国して時としてよく訊かれるのは、アメリカの生活は良いですか?日本とアメリカとどちらが住みやすいですか?といった類いの質問で、答えは当然Yes and Noで、どちらの国も良い面、悪い面がある。私の場合、アメリカで住んでいたロスアンジェルスが約20年、ニューヨークが約20年、この2都市については、いずれも素晴らしい経験をしたが、アメリカはUnited States of America、文字通り50州つまり50の異なった国が合衆国を形成しているので、どの州(国)に住んでも、それぞれ素晴らしい経験ができるはずである。
住んでいなかったものの、ビジネスで何度も訪れた都市で、ボストン、サンフランシスコ、テキサス州のダラス、サンアントニオ、ミネソタ州のミネアポリス、ミズーリ州のセントルイス、コロラド州のデンバー、ジョージア州のアトランタ等、一度は住んでみたいと思った都市は多くある。なにせアラスカを含め、日本の30倍の広さを持つアメリカである。
そして、日本もまた別な面から素晴らしい国である。特に、今住んでいる新宿周辺は昔から大好きな都市、なにせ新宿生まれの新宿そだちであると人には言っていた。
アメリカの大学へ留学を考えるまで
1971年9月、アメリカへ向けてパンナム機で羽田空港から出発した。ロスアンジェルスのUCLA(University of Calif. at Los Angeles)で、1年間、そしてPepperdine University(ペパダイン大学)マリブで1975年12月までの2年間トータルで3年間、日本の大学4年間の他に余分に大学に行ったことになる。従って、再び社会に飛び込んだ時はもう30歳近くになっていた。
実際に、日本で一旦就職してからアメリカに来たのが1971年の秋(9月頃)だったが、日本で法政大学、経済学部を卒業して腕時計製造メーカーに就職し、本社に通ったのは僅か1週間程度(おそらく研修のため)で、すぐさま福島県須賀川市の工場建築チームのメンバーの一人として働けという辞令で、他の技術者と共に工場へと送られた。
当時はどんな就職先もメーカーである以上は工場のある地方へ転勤させられるのは当たり前とされていた時代であったので、特別ショックでもないし、会社も1~2年勉強してこいという考えであったとも聞く。
福島県の会社は須賀川精機株式会社といった。当時の日本経済はイケイケドンドンの号令で、バブル経済の初期だった。腕時計メーカーも、スイスから入る安い時計に対抗を迫られていた。そして、須賀川精機はグランドセイコーの対局にあるアルバ、パルサーといった、いわゆるピンレバーウォッチの生産工場として、会社が発足したばかりだった。
そこで、新しい工場(建物は古いが)で、生産ラインを形成する機械のセッティング計画を作成したり、機械の導入(工場への)を行う業者の管理のため、昼夜逆になった勤務シフトを強いられた。1~2年程度と思って赴任したところ、なんと3年にもなろうとしていた。
私が日本の大学を卒業した1960年代後半の日本はアメリカの影響を受け、ベトナム戦争反対、性の解放運動、ウーマンリブ運動へ発展し、既成の社会体制を崩そうとするヒッピーが出現し、アメリカの学生運動が「安保反対」「反戦平和」を呼んで、大学紛争が徐々にエスカレートしていった。そして、たびたび学生運動の最中で、学校が閉鎖され、それを良いことにクラブ活動(音楽)に専念していった。
私が法政大学時代を送った1960年代後半は、男子の大学進学率が20%程度と言われた。女子に関しては僅か4~5%程度と言われた。誰もが大学へ行くという時代ではなかった。そんな中、クラブ活動に専念していたのだから、当時は法政大学、経済学部ギタークラブ科の卒業だと冗談交じりに言っていたが、それは自分だけでなく、クラブの同期生の誰もが思っていたに相違ない。そして、よく卒業できたものだと自分でも不思議に思ったことも度々であった。実際に、卒業の年になって、少し自分でも欲が出て、自分がなんの科目を履修していて、卒業までに何単位足りないのかを教務課に聞きに行って笑われた。それでも、最終的に卒業できてしまった。この緩さはアメリカの大学との大きな違いであった。
よく日本の大学とアメリカの大学の違いについて「日本の大学は入るのが難しいが出るのは簡単。アメリカの大学はその逆で入るのは簡単だが卒業するのが難しい。」と語る人がいるが、この意見は私にとってはYes and Noと答えるしかない。特に外国人の場合、どんなレベルの大学でもTOFELという共通テストのスコアーを提出して、合否が判断される。これは、ヨーロッパの大学でも同じである。アメリカ人の場合の大学入学テストは日本の様な受験スタイルではなく、高校時代の卒業テストACTやSATなどが入学の決め手となり、新たな入試テストは課せられない。アメリカ人以外、例え英語圏からの留学でさえもTOFELテストを受け、必須のスコアに達することが必要だった。当時はTOEICは未だ一般化していなかったし、聞いたこともなかった。また、今でもTOEICは留学、入学の条件になっていない。
大学で何を学んだかが、最大のトラウマだった
さて、法政大学を卒業し、就職したあとも、人生最大のトラウマとなっていたのは、自分は大学で何を学んだのか、きちんと答えられないことだった。経済学部だから経済原論は取っていて、丸坊主のマルクス経済の教授だったが、それ以外の先生の名前すら出てこない。ましてや、何の科目を取っていたのかすら思い出せない。第二外国語ではフランス語を選択していて、この先生がユニークだったので、このクラスには行っていた。「どうせお前たちは仏語をやっても、4年間では話せるようになるはずがないから、フランスを代表する有名な詩を暗記して、書けるようになれば単位をあげる。」とまで言い放ち、なんとか単位は取れた。
経済はマルクス経済学、つまり貨幣論、資本論で中身はさっぱり分からない。それでも単位が取れた。私の友人の一人は卒業を諦めており、一部の科目の試験を受けなかったというのに卒業できた。どうも同姓同名の人がいて、間違って卒業できただけだ。本当に、当時は緩かった。やはり、日本の大学は世にいう「入りにくく出やすい」というのは本当だったのかもしれないと思った。