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Vol.014 ロスアンジェルスで同じギタークラブの同期 服部くんと会う

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  • 2023年5月13日
  • 読了時間: 12分

更新日:2023年5月14日

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.014 ロスアンジェルスで同じギタークラブの同期 服部くんと会う


LA(ロスアンジェルス)に着いて、カメオハウスに滞在して1週間ほど経ってから、服部くんから連絡が入った。彼はGIA(Gemological Institute Of America)という宝石鑑定士の専門学校で資格を取るべく学んでいた。


私が彼と会った時、彼は既にGIAの資格を取得して、日本にいつでも帰れる状態だったと思う。彼は何度か私の滞在していたカメオハウスに車で迎えに来て、私の意図を汲んでか、Wilshire Boulevard(ブルバード=大通り)中心に、車であちこちドライブしてくれた。広大な関東平野と同じ位と言われるロスアンジェルスも、地域差があるところをドライブして案内してくれた。彼が乗っていた車はシボレー インパラでGM製だったと思う。


典型的な大型のアメ車でスプリングが効いた乗り心地の良い車だった。年型はわからないが、かなり古かった車の助手席に乗せられて、ロスアンジェルスの北から南、東から西へ。黒人街からメキシコ街、コリアンタウンから日系人街のリトル東京、そして高級住宅地。ベバリーヒルズの、彼のスクールボーイ先の家までドライブして案内してくれた。 スクールボーイというのは、当時、外国人留学生でアメリカ人宅に住込み薄給で家事一般を行い、替りに通学の余暇を与えて貰う家内労働者のこと。勉学のみならずアメリカの言語や習慣も同時に修得できるということで、渡米する学生たちの注目するところとなった。とある文献では説明されている。


彼の住んでいたスクールボーイ先は、車のディーラーの経営者の家だった。そして隣の家は、日本で見たテレビ西部劇「拳銃無宿」、映画「大脱走」で有名なスティーブ・マックイーンの家だという。ちょうど彼のスクールボーイ先の家に着いた時に、スティーブ・マックイーンがバイクの音をバリバリいわせて走り去っていったところだった。


同じベバリーヒルズでも、後日私が世話になったスクールボーイ先は、一般住民に近いフラットな住宅街だったが、友人の一人は歌手のダイアナ・ロスの家に住み、時々、彼のスクールボーイ先で、ダイアナ・ロスに会い、ピアノを弾いて歌って歓迎してくれたこともあった。

ここハリウッド近くのベバリーヒルズというところは、映画人・芸能人が多く住んでいるところなので、映画俳優や女優に出くわすことは決して珍しいことではなかった。(住宅地なので、観光バスでは入れないようになっている)


実際に、後に私がお世話になったスクールボーイ先でも、年に1、2回パーティーが開かれ、招待客の有名人に次々に紹介されたことがあった。残念だが、ほとんどの人は日本のテレビでは見かけない人ばかりだった。




服部くんがこれからの生活についての提案をしてくれた




確かにスクールボーイ先を探すのがベストだと思うが、少し慣れるまで日系人の多く住むウェストロスアンジェルス(リトル東京に対し、リトル大阪と呼ばれている)近辺で住むところを見付けたらどうだろうとサジェスチョンをくれた。この地域のソーテル大通り Sawtelle Blvd (Boulevard)が中心で、日系人が経営する店舗もあり、アルバイト先も見つかるはずだという。また、日系人用の仏教会(西本願寺、東本願寺など)の寺があって、寮もあるはずだから、当たってみたらどうだという提案だった。


そして、どこに住むにしても車がないことには、ロスアンジェルスでは動けないので、中古車を購入する必要があると言われた。まず住む場所は仏教会の寮と交渉して、2人部屋、3人部屋の2人部屋に入った。そして最大の懸念のアルバイト先を探すことになった。次から次へとやることが出てきた。何よりもこれからどの位の期間、お金が持つか心配だった。少なくともスクールボーイ先を見つけ、安定するまで節約して生き延びねばと考えていた。ここまで服部くんのサジェスチョンに従って、何とかウェストロスアンジェルスに定住することができたことは大きな助けになった。




マクドナルドが生活の拠点だった




私が日本を出発した1971年、銀座三越百貨店にアメリカからマクドナルドが進出した。このアメリカではビッグマックがドリンク付きで25セントくらいだった。また、どこのハンバーガーも同じような値段であった。このハンバーガーが私の主食になった。私は1日の生活費をできるだけ1ドルと決めて、生活する努力をすることにした。ハンバーガー昼食用に25セント、当時タバコを吸っていたので、タバコ代25セント、ガソリン代1ガロン(3.8L)25セントだが、毎日入れる必要がなかったから節約できた。そして、1日25セントは節約できる計算になる。コーヒーショップ(昔はデニーズタイプのコーヒーショップが典型)で、コーヒー代が10セント、チップが5セント。全部買っても1日10セントは節約できた。実際、1ドルで生活していた。このような生活が3、4ヶ月続いた。問題は中古車の購入だが、果たして500ドル程度で買えるのだろうか。


Santa Monica Blvdと平行に走るOlympic Blvdには中古車ディーラーが多く集中していた。そこのディーラーで、予算500ドルのプライスで車を買う計算を立てたが見つからず、最後は地方紙サンタモニカ市のEvening Outlook(イブニング・アウトルック紙)の通称イエローページと呼ばれる個人で広告を出している中古車を300ドル程で見付け、譲ってもらった。(この300ドルの車で学校にも通うことになった)


初めて購入した車は、イギリス製のTriumph(トライアンフ)。故障ばかりして、結果3、4ヶ月で手放すこととなった。次にアメ車、フォードのライトバンを購入した。結局、500ドル程度払わなければ、走る車は買えないことがわかった。このライトバンは結構便利に使った。




アメリカで初めて運転免許を取得




アメリカに行く前に、品川の鮫洲にある自動車教習所で国際免許証なるものを取得していった。現物はパスポートを少し小型化したもので、アメリカでの運転を許可すると書かれた灰色の地味なものだった。アメリカに入国してしばらくは、この免許証で走れるが、いずれにしても国際免許証が、効力のある間にレンタカーを借りてアメリカの免許証を取得する必要がある。

アメリカの免許証は、3A(スリーエー)という、日本で言うJAFが代行して行っている。テストの基本理念は誰でも受かるテストのようであった。アメリカの免許証はメキシコ、プエルトリコ、キューバ、その他の中南米の国々から正規移民で入る人たちや、Wet Back(ウェットバック)と呼ばれる違法入国者(テキサス、アリゾナ州などはリオグランデ川を泳いでアメリカに入ってくるので背中が濡れていることから、そう呼ばれていた)までもが試験を受けられる。試験そのものは日本のような落とすテストと違い、非常に簡単だった。


一度落ちても2度は落ちないと言われており、特にスパニッシュ系の受験者はスペイン語でもテストが受けられる。昔は日本人のための日本語のテストが用意されていたと聞いた。チャイナタウンの近くの3Aでは、中国語でも受けられると聞いたが、本当のことはわからない。テストはペーパーテストで、事務局の窓口で手数料を払い、窓口で渡された。近くのテーブルで○☓形式で答えていく。日本のように引っ掛け問題はほとんどない。

英語の話せない人種がロスアンジェルスで生活していくためには、車が最小限のマストである。だから、テストでは落とさない。必ず、運転実務を受けさせる必要がある。お金のない移民(違法入国者含め)はテストで落ちていたら生活もできない。命が危なくなる。できるだけ早く免許を取ってもらう必要があるのだ。運転実務も、いきなり試験場の周囲を5分程度走って終わり。更に実務テストのための車は、自分で持ち込みで用意する必要がある。友達から借りたり、レンタカーで友人に連れられて来たり、身内の車で来たりして用意する。ドライバーの助手席には教師用のブレーキも付いていない。リスクはあるが、それでも事故に遭ったという話はほとんど聞かない。つまり、みんな本国で既に運転していた人がほとんどだということだ。




ロスアンジェルスは広い。市内は東京23区と同じ。 LA County(ロスアンジェルスカウンティ(郡)は、関東平野と同じサイズ




ロスアンジェルスには日本のような鉄道網がない。ロスアンジェルス軍は関東平野とほぼ同規模サイズ、ロスアンジェルス市は東京23区と、ほぼ同じサイズである。厳密に言うと鉄道はAmtrak(アムトラック)という大陸を横断鉄道が走っているが、これは通勤用の電車とは異なる。ロスアンジェルスに電車を走らせる計画は、私がアメリカに渡った1972年頃には既にあったが、なかなか進まず、20年ほど前にロスアンジェルスのロングビーチに初めて電車が敷かれた。その後、さらに路線が増えたという話は聞いていない。

ちなみに、この線路が開業した時にエンジニアとしてロスアンジェルスに来ていた私の中学時代、世田谷の桜木中学校の同級生だった牛尾くんにばったり会った。というより、彼は私がロスアンジェルスにいることをどうして知ったのかわからないが、共通の知り合いでロスアンジェルスの東急観光から「牛尾さんという人が、村上さんに会いたかっている」という連絡が入り、リトル東京のホテルニューオータニで会うことになった。が、いまだ彼がなぜ私がロスアンジェルスにいることを知ったのかわからない。彼はたまたま名古屋の日本車輌という電車を製造している会社に勤めており、ロスアンジェルスの車輌の試験運転までのサポートでロスアンジェルスに来ていた。話によると、ロスアンジェルス、ロングビーチの電車を試運転し、第1号の運転も彼が行ったと聞いた。


前述の通りロスアンジェルス市は東京23区と同じ規模で、LA Countyは関東平野と同じサイズである。移動するには車しかない。一部の地域では市内バスが走っているが、バスは低所得者層が利用しており、それ以外のほとんどのロスアンジェルス市の人口300万人は自家用車で移動している。LA Countyだと700万人。少なくとも1,000から1,200万人の人が毎日運転している計算になる。そのため私がロスアンジェルスに着いた1972年には、スモッグがロスアンジェルスの一番大きな社会問題になっていた。


元々ロスアンジェルスは車社会のために作られた町だという。したがって、フリーウェイ(ハイウェイ)網が電車の代わりをしている。フリーウェイの建設はロスアンジェルスの人口の郊外化現象とともに始まり、Free from the way(フリー・フロム・ザ・ウェイ)から命名されたという。つまり「日常の煩わしさから解放される気分」から名がつけられたという。フリーウェイの建設はロスアンジェルスからスタートし、他の大都市にも普及した。


南北に走るフリーウェイは奇数番号。東西に走るフリーウェイは偶数番号が付けられている。したがって、サンタモニカ・フリーウェイは10号線。一直線に走れば東海岸へたどり着く。南北のフリーウェイは北シアトルからカナダへ続き、南はメキシコの国境に近くのサンディエゴからメキシコのティワナへと続いている。これは5号線である。ロスアンジェルスから始まっているフリーウェイは405号線(5号線の延長)で片側5車線ある。往復10車線で車を走らせている。




フリーウェイは名前(ニックネーム)が付けられている




私が頻繁に利用して行ったのは10号線のサンタモニカ・フリーウェイ、5号線のサンディエゴ・フリーウェイ、101号線のロングビーチ・フリーウェイ、パサデナ・フリーウェイなどなど、20本ほどのフリーウェイがロスアンジェルス近郊に走っている。中でも10で割り切れるナンバーのフリーウェイ、例えば10号、20号、30号ならば10本ほどあり、西海岸から東海岸までノンストップで3、4日間で走り通せる。(ほとんど寝ないで運転すれば)


このようにフリーウェイシステムが1960年代に始まり、ロスアンジェルスの人口郊外化とともに車社会が形成された。この便利さは、個人主義(ミーイズム)を主張するロスアンジェルスというより西海岸に住む人たちの心を掴み、大いに発展した。このクルマ社会はなくならないし、同じくらい電車の必要性も感じていないのだと思う。


ロスアンジェルスとはこういう社会をいう。移民にとっても不法移民にとっても、留学生にとっても、車が必要不可欠で、まず始めに手にすべき必需品である。車がないのは足がないのと同義語である。それだけに、ロスアンジェルスには中古車ディーラーが多く、車の種類も値段もピンキリである。そうは言っても、移民留学生が買える車となると限りがあり、値段も100ドルから1,000ドルの中で探す。私もロスアンジェルスにいた20年間は100ドルからせいぜい500ドルまでで探した。仕事をするようになって初めて1,000ドルや2,000ドル程度の中古車が、購入できるようになった。ロスアンジェルスの滞在中に10車種くらい買い替えて載ったが、ほとんどが大型のいわゆるアメ車で、フォード、クライスラー、GM、ダッジであった。アメ車はよく故障するといわれるが、選んではいられなかった。


1970年代初期になって、アメリカでも日本車が走るようになった。初めに目に入ったのは日産、当時はDatsun(ダットサン)と呼ばれていた。金持ちの車、日本名のフェアレディ240、アメリカ人はダッツァン240G(ツー・フォーティー・ジー)と呼んだ。そして、Toyota セリカが入り、Honda シビックが入ってきた。そしてフリーウェイの路肩にはアメ車の故障者の列ができていた。一方、日本車は壊れない、燃費が良い。と、徐々に評判を高めていった。かつてJapanese car are made of can?(日本車は缶で作られているのか)と、揶揄されていたのが60年代後半だったから、僅か5、10年間に日本車の評判が大きく変わった。


私の留学生仲間の1人、慶応大学の自動車部だった清水くんは日本では乗れないのでと、GMのカマロ、ファイアーバードなど7,000CCクラスの車を楽しんで乗っていた。車好きな人にとっては、ロスアンジェルスは最高の場所と言えるかもしれない。

私は、のちのち、ダッジダート、フォード、GM、カプリス、ダッジチャレンジャー等のアメ車から、ヨーロッパ、イタリア系のフィアット500(500CCだから、バイクの馬力と同じ程度か?)BMW3シリーズ。。。ヨーロッパ車、全て中古車のみ乗り継いできた。そして、いつも修理に悩まされてきた。良かったことは、運転が楽しかったことと、エンジンのメカが少しわかるようになったことである。ニューヨークに移ってからの20年間は車は購入せず、レンタカーを便利に活用した。


韓国製のヒュンダイ、日本のToyota カムリ等の車種を乗った。実際、ニューヨーク市のマンハッタンの中心に住む限り車は必要としないし、電車も日本並みといかないまでも、かなり便利に路線があり、特に地下鉄の乗客となってからは、アメリカ人、人種について観察できるチャンスがあり、アメリカを改めて考えるようになった。ニューヨークとロスアンジェルスでは大きく異なる。このことは、別の機会に報告しよう。



 
 
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