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Vol.015 ロスアンジェルスで同じギタークラブの同期 服部くんと会う-詳細編

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  • 2023年5月24日
  • 読了時間: 6分

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.015 ロスアンジェルスで同じギタークラブの同期 服部くんと会う-詳細編



ウェストロスアンジェルスベースに生活が始まった


ロスアンジェルスのダウンタウン近く、メキシコ人街のカメオハウスに2週間滞在した後、服部くんのサジェスチョンもあり、ウェストロスアンジェルスの日系人が多く住む地域に移った。

今日、西のリトル東京に対し、東のリトル大阪と呼ばれるようになったエリアである。当時は、それほど有名ではなかった地域も、今日では日本からの一時居住者も増えて、日本食レストラン、特にラーメン屋、寿司屋も開業し、床屋もあり、小さなショッピングセンターも建てられていた。私がカメオハウスから移った時は、日系スーパーマーケットと数軒の日本食レストランがある程度だった。場所はフリーウェイ405号線に並行してSawtelle BlvdのOlympic BlvdとSanta Monica Blvdに挟まれた地区であり、この通りの周りは2Km四方に渡って、日系人が多く住む住宅地が広がっていた。もともと、ベバリーヒルズ、ブレントウッド、サンタモニカ市に近く、日系人がこれら高級地のガーデナー(庭師)として働くのに便利な地域として誕生した住宅地だと聞いた。


戦前、戦後にアメリカに渡って、ガーデナー(庭師)として働いて財を成した日本人が住んでいた。彼らはこの地に土地を購入し住んでいた。そのため、ほとんどの人が成功者だった。碁盤の目に造成された土地は1エーカー(1240坪)単位に区切られており、それを4軒でシェアする宅地に造成されていた。

したがって、どんな小さな家でも300坪単位の広さを有し、平屋でも車3、4台が駐車でき、更に子供たちがバスケットができる程度の充分の広さがあった。そしてこの住宅地は、地域の安全性も確保されていた。


私が住むことになった所は、この住宅地にある仏教会(浄土真宗)の教会の運営する寮だった。2階建ての約10部屋(各2部屋)あるうちの1階Sawtelle Blvdに面した部屋だった。ベッドルーム2部屋に広いリビングルーム、キッチン、バスルームの完備されたスペース充分の部屋だった。既に2人の先客がいたため、1人部屋、2人部屋に入れずに、3人部屋に決まり、ルームメイトは日系三世のジェフくんといって、もう1人も同じUCLAの学生ということで、やはり日系三世で、アリゾナ州から来ていた。2人とも、日系三世であっても日本語はほとんど話せず、常に英語でのみ会話していたが、私にとっては英語の勉強のため好都合だった。そして、我々はすぐに親しくなった。さらに良いことにアルバイト先が近くに見つかった。



Sawtelleの日本食スーパーで働くことになった



私の住み始めた仏教会の寮から徒歩5分のところに、日本食のスーパーマーケットがあった。スーパーマーケットといっても、100坪あるかないかの小さな食品店で、看板には「Fujimoto Japanese Food」と書いてあった。オーナーは日本から移民で来た藤本ファミリーで、当時、既に息子(長男)が取り仕切っていた。家族は4人で、父親が精肉、鮮魚を扱い、長男のJeffくんが野菜、その他全ての食品を担当していた。ミセス藤本はアルバイト女性1人とレジを担当し、ときに長女も手伝うこともあった。私はこのスーパーマーケットでアルバイトさせてもらいたいと申し込み、週3日働かせてもらうこととなった。実は他の3日間は稲垣さんというガーデナーの仕事を手伝うアルバイトをしており、何とか1週間のアルバイトを決めることができたのは本当にラッキーだった。

藤本スーパーでの仕事は食品の品出し、店舗の品書き、プライス貼りに始まり、時にJeffくんの車(2tトラック位)に同乗して、ロスアンジェルスのダウンタウンの鮮魚市場、兼精肉市場、野菜市場などに同行したこともあった。市場へ行く時は、朝7時には市場に着き、仕入れをして、店に戻るのは11時頃になる。それから品出しが始まる。この日本食マーケットは薄くカットしたすき焼き肉が評判となり、ベバリーヒルズ、ブレントウッドの映画人もよく買い物に来ていた。

当時はロスアンジェルスに短期滞在していたロック歌手の矢沢永吉だとか、女優の宮沢りえ。また、ドジャースに入団した野茂選手なども、時々、買い物している姿もあった。もちろん、日系の有名な映画人、女優で、マーロン・ブランドの朝鮮戦争の「撃墜王」のストーリー「さよなら」で共演した日系女優のナンシー梅木、アカデミー女優助演賞の高 美以子、ベスト・キッドの師匠役、パット・モリタ等は常連客だった。このスーパーはUCLAに行くようになってからも週3日ベースで働かせてもらった。話が前後するが、私の住んでいた仏教会の寮からUCLAまではバスで15分から20分程度で非常に便利だった。Santa Monica Blvdまで徒歩3、4分。バスに乗って4、5停留所でWilshire Blvdに着いて、そこがUCLAの入口だった。

さて、話を仏教会の寮に戻す。同部屋の同居人の2人は毎日曜日になると、朝から2人揃って出かけるので、ある時Where do you guys going to every Sunday?「日曜日に2人でいつもどこに行くのですか」と聞いてみた。

すると、近くの広場にFDA連邦事務所があり、そこに兵隊の育成訓練所があるので、訓練を受けに行くという。そうすれば学費のある部分が免除になるという。当時はまだベトナム戦争が戦われていた時だった。



GI Billって何ですか?



彼らの行動や服装(グリーンの迷彩服)を見た時に、初めて戦争を意識した。日本にいた時は、日本は戦後20年以上経済成長(自国の)のみを考えて、注ぎ込んできた。我々サラリーマンは毎年の昇給を願って働いてきて、ある意味平和だった。戦争なんて二度とあるとは思ってもいなかった。

しかし今、このロスアンジェルスでは、まさに若者2人が戦争に行く予備訓練をしている。彼らに聞いたことだが、ベトナムに行く時が来たら、招集されたら行くと2人とも答えた。ベトナムに行けば、全ての学費が卒業まで免除されるGI Billが与えられるという。もちろん無事に帰って来られればの話だが、その他の恩赦もあるという。愛国心で行く者もいるし、ベトナム戦争反対運動があることも知っている。アメリカ人それぞれだ。「私達は自分の経済的負担を少なくするチャンスだと思っている。GI Billを活用すべきだと思っている。」と彼らの心の内を述べた。


元々このGI Billとは、第2次世界大戦の時に法律が制定され、多くの若者が活用していた。そして、今日のベトナム戦争でも、この法律が生きているという。そして「一度訓練を見に来るか。」と言われて連れて行ってもらったことがある。FDA連邦本部ビルの前の広い芝生に数百人の若者が、自衛隊のようなユニフォームで銃を持って、リーダーの号令に従い、走ったり、整列したり、地べたを這ったりしていた。この訓練は最後に全員にランチを提供し、手帳にスタンプ(サイン)されて終了した。


日本にいた時は戦争なども起きないものだと決めつけていたが、今ここアメリカでは現実に戦争が行われている。その後も空港で移動する兵隊の姿を何度も見る機会があった。そして私も後日Pepperdine Univ.の月謝の工面のためにベトナムへ行こうと考えたこともあった。Student Advisorの教授ジェームズ・アトキンソン氏に「1年間ベトナム戦争に行きたい」と直訴したことがあった。先生は「それは歓迎しない。日本人は外国人一般となり、最前線に送られるのは間違いない。現に、誰も言わないが、今は黒人が前線に送られている。私は片手片足をなくしている君を見たくない。」と言って反対した。


アメリカは戦勝国で、戦勝国は常に戦争は起こるものと考えているのかもしれない。だから最終的に核の問題に行き着くのだ。今もアメリカは地球のどこかで戦っている。しかし、自国の領土の上で戦ったことがない。ベトナム戦争では勝てなかった。負けたと言っても、自国の領土で戦っていないので、負けたという実感が薄い。ベトナムに行って帰って来た者のみの戦争だった故に「プラトーン」が生まれた。歴史の授業で、アメリカ人は基本的にWar Hank、戦争好きの国家だと聞いたことがあり、未だに頭に残っている。

 
 
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