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Vol.013 アメリカへ出発まで(2) 鈴木工場長との出会い-2

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  • 2023年5月6日
  • 読了時間: 10分

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.013 アメリカへ出発まで(2) 鈴木工場長との出会い-2


せっかく入社した会社を辞めると言った時、当然のことながら家族は反対した。就職難というほどではなかったものの、せっかく入った会社だから、終身努めるべきだと父親は終身雇用論で説得にかかってきた。しかし、自分は既に退職を決心していた。

退職を決心した最大の理由は、急に日本以外の国について知りたくなったからである。


福島県須賀川市で、朝8時から夕方6時まで工場で働いていた。日本の経済も好調で、私のいた腕時計メーカーも順調に業績を伸ばしていたが、いつしかスイスとの競合関係に入っており、中でも安物時計の生産製造ラインの工場建築の必要性が叫ばれていた。そこで、アルバ、パルサーの価格競争用のラインを立ち上げるために須賀川へ行け。という辞令を手に、赴任してきた。


そして、アメリカへ行く決心をしたきっかけを作ってくれた、本社から転勤してきた鈴木工場長と会うことになった。工場での仕事は毎日同じ作業の繰り返しが多く退屈だった。独身だったこともあり、毎週末に福島県でも最も人口が多く、活気のある郡山市の繁華街へ同期入社の仲間と出かけては、夜中に療に帰る生活を送っていた。毎週のように酒を上げて帰ってくる姿を見ていた寮の隣の部屋に住んでいた鈴木工場長にあるとき呼ばれて言われた。「村上くん。サラリーマンというのは、20代にどう過ごしていたかで将来が決まるのだ。


毎週、毎週夜飲み歩くのも良いが、たまにはこういう本を読んでみないか。」といって、ピーター・ドラッカーの「断絶の時代」や、アルビン・トフラーの「未来の衝撃」を読むように勧められた。中でも、断絶の時代には大きなショックを受けた。

話のレベルがアメリカのことだけにとどまらず、イギリス、フランス、ドイツ、そしてアジアの国々、当然日本を含めた情報革命、コンピュータの進化により、社会がどう変革していくのかについて語っていた。


そして初めて、日本以外の国々が少し見えて興味を持った。日本以外の国が見たいと感じた瞬間であった。さらにまた、アメリカと日本の賃金格差にはショックを覚えた。私が就職した1960年代後半の給与はわずか月給3万円だった。

それでも毎年、給与が上昇し続け、会社を退職した1971年には、7、8万円になっていた。もちろん毎年全ての物価も上がっていたが。一方、アメリカでは我々の給料水準の10倍であった。アメリカの大学卒の給料は、その年70万から80万円だった。日本の10倍の給料を得るためには、再び勉強して、ゼロからスタートするしかないと思った。どうせ日本で勉強しても、同じような大学生活の繰り返しとなる。どうせゼロスタートならば、言葉もゼロからスタートする。つまり、日本語ではなく、英語でゼロからやり直すしかない。よし!アメリカの大学に入り直そう!と考え、TOEFLの試験を目指すこととした。


当時TOEFLのテストは東京で、上智大学やICU国際キリスト教大学でしか実施していなかった。したがって、何が何でも東京へ戻る必要があった。それからというもの本社から出張で来る偉い人に会っては話しかけ、「私を東京本社に戻してください。1年という約束が、もう3年近くにもなります。」と訴え続けた。結局、「事務系には戻る席はないが、業務技術系ならば、帰れるかも知れない。それでも良いか」という話だった。私は東京に戻れれば、もうどこでもよかった。少なくとも福島より東京の方がアメリカに近づく感じがした。そして、ついに東京に戻った。


東京に戻った後の業務は、生産管理の単純作業で、明日、明後日組み込む時計の部品を確認し、揃え、管理し、組み立て現場に送るもので、その計画ができれば完了とするという何ともアナログな世界だった。

午前中には仕事を片付け、午後は何をしても文句を言われない。暇な時は、英字新聞や、Times、Newsweekを読んで、少しでも英単語を覚える時間に充てた。煙たい顔をして見る者もいたが、誰1人声をかけ、咎める者もいなかった。

自分は一歩一歩、アメリカに向かっていく感じがしていた。そして実際にTOEFLを受けたときは、大きな第一歩が踏み出せたと感じた。そして自分に確信のようなものが生まれた。当時TOEFLテストは800点満点。私は第1回目のテストで、ラッキーにも650点のスコアだった。後にアメリカに渡った後で一度受けたときは、こんなに高いスコアを取れなかった。したがって、日本で受けたこのスコアを主だった大学へ送り、返事を待つこととなった。とはいえ、アメリカの大学の情報が、あまりにも少なく、カリフォルニア州、アリゾナ州、ネバダ州、テキサス州などから、約20から25校に、レターを作成し入学の希望を告げた。その結果、半数以上の大学が受け入れる旨の返事と同時に大学の願書を同封してきた。


カリフォルニア州のUCLA(University of California at Los Angeles)、南加大学)University of Southern Calif.)、アリゾナ州立大学、テキサスA&M Univ.、シカゴ大学などの大学が目に留まった。次に留学したい大学の場所を選ぶ必要があったが、当時の自分は、周囲にアメリカの大学について相談できる人もいなかった。

アメリカの東部、例えばニューヨーク州、マサチューセッツ州、フィラデルフィア州にも、興味があったが、あまりにも情報が少なかった。中西部では、イリノイ州のシカゴ大学からの返事もあった。シカゴには遠い親戚の人がいると両親から聞いていたので、出願したのだが、自分にとってはあまりにも遠いアメリカだった。次に何を基準に大学を選ぶべきか考える必要があった。都市の情報も少ない。入学金、月謝の高低もよくわからない中で、はっきりしているのはアメリカで生活費を稼ぎ、月謝も稼がなければならないということだけである。


つまり、一にも二にも働きながら通える大学である必要がある。日系人の多く住むカリフォルニア州、それもロスアンジェルス市が最も優先度が高かった。ロスアンジェルスにはUCLA以下カリフォルニア州立大学が幾つもある。

例えば、通称カルポリと呼ばれるCalifornia State Polytechnical University(カリフォルニア工科大学)もある。そしてカリフォルニアでは日本食も食べられると聞いた。実は日本食にはそれほど執着しなかったものの、働きながら通える大学はUCLAしかないと結論付けた。そしてUCLAに願書を送った。UCLAは1972年の春のセメスターから受け入れるという返事が返ってきた。次の問題は出発前の資金繰りである。当時、留学といっても、いくら用意したら良いのか。というより、いくら準備ができるのか検討もつかなかった。聞いて相談する人もいないとき、とりあえず計算できる用意できる金額が約3000ドルだった。


3000ドルは当時の日本の為替レートが1ドル365円だったので、日本円で約110万円準備する必要があった。それでも1年間アメリカに滞在できるかどうかわからない。しかしこの金額を何とか準備しなければ、スタートすらできない。会社を辞めて、わずかな貯金と、ほぼ新車のトヨタマーク2を、購入した従兄弟のトヨタ販売会社に買い戻してもらい、保険を解約して、両親から借金し、何とか3000ドルを工面した。ここまで来てやっとアメリカが見えてきた感じがした。当時1972年は、まだ東京ーロスアンジェルスの直行便は飛んでおらず、ハワイないしサンフランシスコ経由で行くルートのみであった。


飛行機代片道は約1000ドルで、用意したお金の3分の1がチケット代で消える。残りの2000ドル。このお金でアメリカで何とか1年間生活し、学費が払えるのだろうかと心配が残ったが、着いてすぐにアルバイトを探すしかないと確覚悟を決めた。片道切符しかないのだ。



アメリカへ向けて飛び立つ



1971年9月羽田空港から家族数人の友人に見送られ、パンナム機でサンフランシスコへ向けて飛び立った。機種はジャンボ747だった。何を着ていったら良いのか見当もつかなかったので、とにかくサラリーマン時代と同じ、薄いブルーの一張羅の背広を着て出発した。生まれて初めての飛行機の旅だった。席は窓際だったので、サンフランシスコ迄、かなりの時間を外の景色を見て過ごした。不安とわくわく感が同時にやってきた感じだった。サンフランシスコ経由で、パンナム機からユナイテッド空港に乗り継ぎ、目的地のロスアンジェルス空港に着いた。


そこから先の行動予定は決めていなかったため、ロスアンジェルスの空港からタクシー(イエローキャブ)に乗り、ドライバーにロスアンジェルスで一番安いホテルに連れて行ってほしいと言って走り出した。サンディエゴフリーウェイ(405号線)を北に走り、10号線、サンタモニカフリーウェイを東方向に乗り継いで、空港を出てから約30分ほど走って、ロスアンジェルスのダウンタウン、高層ビル街の手前、マッカーサーパークに近い、メキシコ街でフリーウェイを降りて、近くの「カメオハウス」(Cameo House)の前で止まった。料金は10から15ドルくらいだったと思う。チップはあげるのを忘れた。タクシードライバーは気を利かせて、私を待たせてホテルの中に入り、部屋があるか否かを確認してくれた。そして、Good luck!と言って別れ、私はこのホテルにチェックインした。これがロスアンジェルスに着いた第一歩となって、ここに約2週間滞在した。



カメオハウス滞在の2週間



カメオハウスにチェックインした翌日から早くもジェットラグ(時差)に悩まされた。初日は、疲れているはずなのになかなか寝付けない。やっと夜中に寝たと思った翌日、目が覚めたときは既に夕方になっていた。その日はホテル内のハンバーガーショップで夕食を食べ、ホテルの中で過ごした。明日は早く起きて歩こうと思って寝るが、2日目も同じ繰り返しだった。このホテルはホテルというより、ロスアンジェルスに出稼ぎに来たメキシカンの寮のようだった。夜になると中庭から誰かれもなくギターを弾く音が聞こえてくる。そしてコーラスも入り、聞いているととても楽しかった。そしてまた寝られない夜が続くこととなった。


こんな日々が3、4日続いて、「これではいかん。明日からは時差を直そう」と決心し、朝頑張って起きた。そして1ブロック先にあるグロサリーストア(食品店)でパンと牛乳、チーズなど朝食用に最低限のものを買って、近くのマッカーサーパークへ行き、パークで朝食を食べ、ホームレスと初めて話をした。アメリカに来て初めてやる気を起こした瞬間だった。ホームレスにロスアンジェルスの地図を見せ、サンタモニカに行きたいが、どのぐらい時間がかかるのか。How long does it take to Santa Monica?と聞いたが、バスで行く時間しか返ってこない。自分は歩いて行く時間が知りたい。最後にBy walkを付けた。答えはAre you kidding?(本気かい?)と言い返してくるだけで、返事にならない。バスで1時間半もかかるとしか言いようがなかったのだろう。しかし、とにかく私には時間があるので、1日かけて歩いてみようと決心した。地図を広げながらWishire(ウィルシャー)大通りを西へと歩き出した。この通りは今後、毎日のように通る私の生活道路となった。


そして後に、TMIの事務所を持つことになった大通りである。そしてこの通りは日本で見たテレビ映画、Route 66(ルート66)の通りでもあった。私はルート66の通りをダウンタウンから、メキシコ人街、マッカーサーパーク、コリアンタウン、ベバリーヒルズの一角、高級ショッピング街ロデオドライブを通り、UCLAのあるWestwoodまで歩いた。さすがSanta Monicaまでは遠い。15マイル(24キロ)もある。それで、翌日は途中までバスで行き、UCLAから歩き出し、West LAからSanta Monica迄歩いた。


この2日間歩いて、人と出会ったら道を尋ねながら歩こうと思っていたが、歩いている人を見つけるのが大変だった。仕方なく、Wilshireのバス停で待つしかなかった。ロスアンジェルスはまさに車社会だったと改めて身をもって体験した。バス停で人に会うとすぐさま、How can I get to Santa Monica? How do you get to Santa Monica?など、

幾つか用意したフレーズで尋ねてみたが、答えはみんな違っていた。教科書通りの英語はほとんど返ってこなかった。これが本当の英会話なんだ。と、すぐに気がついた。


日本で英語がうまくならないのは紙ベースで学ぶからだ。英会話学校でもワンパターンの質問や答えしか教えない、そして学校を離れたら日本語で生活する。英会話は全ての生活の場面におけるパターンを英語で話した環境に置かなければ覚える術はないと改めて思った次第である。

 
 
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