top of page

Vol.017 スクールボーイ先、Forest "Woody" Fraser氏との出会い

  • MY
  • 2023年9月24日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年9月24日

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記- Vol.017 スクールボーイ先、Forest "Woody" Fraser氏との出会い


アメリカで豊かな留学生活を送るには、良い(住みやすい)スクールボーイ(School Boy)先を見つけることが欠かせない。学生生活の質を高めるにも、学費、生活費の節約のためにも、語学の勉強のためには良いスクールボーイ先を探す必要が不可欠であった。


スクールボーイとは日本語だと下宿人となるかもしれないが、アメリカのそれは大分異なる。下宿人はお金を払って住まわせてもらうが、アメリカのスクールボーイはアメリカ人の家庭に一部屋を借りて住まわせてもらい、その代わりに家族の食事の手伝いをしたり、洗濯をしたり、家の掃除など、家事の一部をし、労務と間借りの相殺をして無償で住まわせてもらうことである。


何を行うかは家主と相談で決めるが、一般的には新聞広告で若干の情報が書かれていて、それ以上はお互い会った上で相談ということになる。ずばり、スクールボーイ先の条件は、その家主の善し悪しで決まるが、私が留学時代に住んだWoody(Woody-Forestの略称)の家は非常に居心地が良く、トータル2年間もお世話になった。


Woodyはどういう人だったか


Woodyはペンシルベニア州フィラデルフィア市の出身で、3大全国ネットテレビジョン(NBC、ABC、CBS)の一つ、NBCの敏腕プロデューサーで、私が会った頃はNBCからロスアンジェルスCBS(Colombia Broadcasting System)に移籍して、番組の開発に当たっていた。

1970年代当時のアメリカは、マイクダグラス・ショー、ジョニーカーソン・ショーなど、幾つかのトークショー番組が人気で、そのプロデュースを行っていた人で、CBSが招聘してクイズ番組で有名な、ジェパダイ(後に日本で同じ番組が日本版で放送された)の開発を行って、大人気番組となった。


私も土日には、クイズの開発を手伝ったこともある。そして、その後はThat’s Incredible(信じられないような話)をヒットさせ、矢継ぎ早にReal People(真実の人)等の番組を開発し、全米のヒット番組を作り上げた敏腕プロデューサーであった彼は、ロスアンジェルスに赴任して、Beverly Hillsの一角の住宅街に2階建ての一軒家を購入して移ってきた。


1階は別家族のLolita Metzと息子2人JohnとJeffの一家に貸して、また、この家も、一部屋をUCLAの女学生のJudyをスクールガールとして住まわせていた。従って、私はWoody、Lolita家族、Judyと、常に5人のアメリカ人に囲まれて住んでいたことになる。他の友人で、このような環境に住んでいた人はいない。


この家のロケーションはBeverly Hillsの一角とはいえ、HollywoodのSunset Blvd.を下り、Fairfaxに繋がる大通りに面していたHollywoodの映画関係者が多く住む住宅地である。それゆえか、常に週末にはどこかの家でパーティーが開かれていた。私も、年に何回かパーティーに誘ってもらえた。彼は、常に私のことをスクールボイスとは言わず、Japanese Friendと紹介してくれた。


パーティーの参加者では、ほんのわずかだが(日本の)テレビでも見たことがあった、Sammy Davis Jr.や、女性のポップ歌手のConnie Francisはすぐに分かったが、他の大部分の人は日本のテレビでは見たことはないが、多分アメリカでは有名な俳優や、女優ばかりだった。

このSammy Davis Jr.とConnie Francisは、私がNew Yorkでビジネスを始め、住んでいたマンションの1階にあるジャズクラブのCarnegie Jazz Clubで偶然にも再会した。

もちろん、もうかなりの年齢になっており、記念写真を撮ったことも懐かしくなった。2000年の暮れのことだったと思う。


私が住んでいた家の2階は、日本で言うと3LDKというのだろう。寝室が3部屋(日本の12畳くらいか)ダイニングルーム(キッチン併設の広いリビングルーム)に、ユーティリティルーム(洗濯、パントリー、冷凍庫など)が備わったレイアウトで、私は2階の奥の一部屋が与えられていた。下のLolita家族の家も2階と全く同じレイアウトだった。

従って、私の部屋のすぐ下がJudyの部屋だった。裏庭はアメリカのどの家庭とも同じ様に車が4台程度駐車でき、子供たちが遊べるバスケットのコートが設置されていた。Woodyが休みの日は子供たちとバスケットで遊んでいた。


実はこんなこともあった。友人が居候で飛び込んできたことがあって、松村康一(Koichi)といった。私にとってWoodyの家はスクールボーイ先として初めての家でもあり、3軒目でもあった。


KoichiとはUCLA(University of California at Los Angeles)の下部組織が運営する英会話学校で知り合った。この会話学校は世界から学生を受け入れており、学期が始まるまでの間はUCLAの学生が教えていた。Koichiの父親は有名な「男はつらいよ」の二代目おにいちゃん役の松村達雄だった。

彼は私とは異なり、南カリフォルニア大学(University of Southern California)に入学することに決まっていた。彼も私も入学の日までの数ヶ月間、このUCLAの英会話学校に通っていた数少ない日本人留学生だから、すぐに親しくなった。


彼は家柄も良くお金には不自由していないようで、アパートを探す間、ここに置いてくれと言って、私の住んでいるスクールボーイ先のWoodyの家の私の部屋に居候として住み着いていた。彼が南加大の授業が始まれば出ていくだろうと思っていたが、いつまでたっても出て行く気配が見えないので、私がWoodyの家を彼に譲って、自分が他のスクールボーイ先を見つけ、よそに移ると彼に伝えた。


その時点では、Woodyはうんともすんとも言わなかったが、私が次に見つけたスクールボーイ先と折り合いがつかず、再びWoodyの家に戻った時に、彼が「Masa、ここはお前の家でKoichiの家ではない。Koichiが出ていくべきで、お前が言えないのなら、私から言う。」と言ったが、自分で直接彼に伝えると答えた。そしてKoichiに、彼の大学、南加大の寮に入るように勧めた。そして彼は出て行って、それきり彼との付き合いも切れた。


契約は破られることがある


Koichiに部屋を譲った時の一時的なスクールボーイ先はBeverly Hillsの豪邸、Mr. and Mrs. Rose家であった。そこはWoodyの家とは全く違って、日本にいたときにテレビで見たような豪邸に住む、カリフォルニアでも有名な保険会社のオーナーの家だった。Mr. and Mrs. Roseの家は、観光バスが通るような立派な門構えの家だった。


Rose夫妻とは当然、事前に電話で条件について話し合って合意したはずだったが、移った後に契約はことごとく変えられていた。あるいは、書き加えられていった。中でも料理は元々の契約(口約束でも)になかったが、スーパーで食材の購入、調理の準備まで毎日のように命じられ、さすがに「これは条件になかった」と抗議したが、Mrs. Roseは「あなたがやっているのは調理とは言わない。調理は私がメモを書いて渡しているので、調理をやっているのは私。」と言い張って、実はこれが決定的な契約違反で我慢がならなかった。


この時、「アメリカでは契約は破られるためにある」と初めて知った。それ以外にも、朝は6時に起こされた。留学生にとって夜は勉強で遅くなるので、朝早く起こされるのはきつかったが、毎朝Mr. Roseが私をベッドに呼びつけて「Masa!新聞を持って来い。」と言われ「Yes, sir」と答えるように言われた。私をスクールボーイではなく、昔の奴隷と同じだと思っているとしか考えられなかった。スクールボーイは奴隷ではないといっても、スクールボーイを雇用したことのないアメリカ人の家庭で混同する人も少なくないと聞いた。


結果的に私は2週間後、ポンコツのライトバンに再び荷物を積み、出発準備を整えた夜中の1時半に「条件が守られないので、この家を出て行く」と言い放ち、真夜中の2時にRose家を後に、そのままWoodyの家に戻り、居間のカウチで寝て、翌朝(実際には同日の朝)Woodyに事情を説明した時、Woodyはこう言った。「ここは元々お前の家だ。Koichiが出て行くべきだったんだ」と。結果、私が元のWoodyの家に戻り、Koichiは南カリフォルニア大学の寮に移ることとなった。


私が150ドルで買った中古車というよりはポンコツのライトバンに、教科書と私物を詰めるだけ詰め、Woodyの家を後にしたはずが、2週間後には再びWoodyの家に戻ってきたのだった。その結果、その後の2年間はWoodyの家に再び住むことになり、スクールボーイ生活の2回目が再び始まった。そしてある時、彼が「Masaの車は、いつ故障してもおかしくない。自分が乗っていないポルシェ911は中古だが、お前のライトバンよりはマシだ。明日からそれに乗らないか」と提案してくれた。


おまけに、「これからは、毎月ガソリン代として月50ドル(当時の額で数万円したと思う)支払う。」と言ってくれた。この50ドルの価値は、さらに大きく当時の私の財政を、生活を、留学人生を変えるものだった。今まで私のポンコツでは、ペパダイン大学の300mの山を登ることができず、いつも車を下の大通りへ停めて、そこから知人を待って同乗させてもらっていたからだ。この頃は、既にUCLAからペパダイン大学に転校していた。話が前後したが、そのことについて述べよう。

 
 
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square

#309 Shinjuku N-Town Plaza, 3-12-4 Shinjuku, Shinjuku-ku, Tokyo 160-0022

  • Facebook Clean
  • LinkedIn Clean
  • Twitter Clean

© TMI Consultants, Inc. / Techni Marketing International, Inc. All rights reserved

bottom of page