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Vol.004 英語との出会い

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  • 2022年1月17日
  • 読了時間: 6分

更新日:2022年6月6日

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.004 英語との出会い


私の英語との出会いについて話してみよう。私の家族で英語を話す者はいなかったが、親類の中で英語を話す者は何人かいた。その人達の中で最も私が影響を受けたのは、私の祖母の弟(大叔父)で岩手県北上市の黒沢尻高校の先生をしていた八重樫甚八祖父だった。

これはよく母親から聞いていた話で、彼は17歳の時にアメリカ行きの貨物船で皿洗いをしながら、ニューヨークへ渡って、コロンビア大学で学び、帰ってから田舎へ戻り、黒沢尻高校(女学校?)で英語を教えていたと聞いたことがある。


そして初めてこの大叔父に会ったのはアメリカから帰国した1960年代だったと思うが、大叔父が東京の家に寄って泊まっていった時に「マッキー、お土産があるぞ」と言われて、もらったものがディズニーランドの回転式スライドピクチャーだった。そのスライド自体は、お伽の国、キャッスル(城)、スペースマウンテン等、10-15箇所程度映したもので楽しかったものの、あまり感激もしなかったが、この時初めてアメリカを意識した。


大叔父の長女が同じ高校(女子校)で英語の先生になった。同じく、母方の八重樫の親類の中には三井物産のシンガポールオフィスに駐在していた人、アメリカの石油会社のケネコッド社の東京支社長の人、コカ・コーラの工場長(日本の工場)をしていた人、ドイツのウェラの日本支社長をしていた人等、母方の親類には何人か英語で仕事をしていた人がいて、(実際に英語を話すのを聞いたわけではないが)強いて言えば、4-5人が英語に関わって仕事をしていた人がいたが、話すときはいつも日本語だったので、特別アメリカについて質問もしたこともないし、話も聞いたことがなかった。しかし、この環境も徐々に私をアメリカへ向かわせる要因の一つだったかもしれない。


しかし、実際に私自身が自ら意識して英語を話せるようになりたいと思ったことが4回ほどあった。最初は中学時代、東京オリンピックの開催された年、2回目は高校時代に友人の姉とモルモン教の教会に英語を習いに短期間通っていた時、3回目は大学時代、同じ高校から来ていた横須賀出身の友人にパーティーに呼ばれていった時。4回目が就職して本格的にアメリカ留学を考えた時。中学時代、高校時代、大学時代、そして社会人になってと、断続的に4回ほどアメリカというより英語に興味を示した時期があった。


最初は中学時代、東京オリンピックの時は世田谷区に住んでいた。そこには馬事公苑という開放された皇室の公園があり、外国の馬術の選手が練習しているのを見ていた。また、近くに東京農業大学(農大)があり、馬術部がよく練習をしていたので、見に行っていた。この馬事公苑でオーストラリアの選手の練習を見ていて、馬から降りて休憩している時に話しかけた。英会話の本を持って行って、英語の勉强をしたいと言ったら、毎日同じ時間に会ってくれて一週間続けて英会話の相手をしてくれた。これが初めて外国人と英語を話した時だった。アメリカ英語もオーストラリアの英語の違いも、もちろん分からないまま初めて外国人と話した機会だった。


その次に英語に接したのは高校2年か3年の夏だった。どこの高校生も行うように夏のアルバイトを探していた時、母が行っていた(生命保険の外交員として)顧客の中に、原宿の表参道の洋菓子・喫茶の”フランセ”という店があり、そこのマネジャーの紹介を受け”ボーイ”として働かせてもらった。

この店は場所柄か外国人の客が多く、私は外国人が来ると自分からアプローチし、注文を取り、コーヒー・洋菓子のサービス等、一連の定型パターンの英語を覚えて対応するようにした。やはり英会話の本に書かれている定型パターン”May I help you?"から始まり、”What can I do for you?"や”Thank you sir/mom"や”Thank you very much, please come again"を毎日、同じ繰り返しのフレーズを練習した。なんとか通じるように願いながら。。。実際に話していることは短いフレーズの繰り返しだったが、外国人にサーブしている時は英語を話している気分になっていた。


この洋菓子店喫茶はとうの昔に閉店してもうないが、東郷青児のグラフィックの包装紙で有名な店だった。この店のアルバイトは高校2年、3年の夏休みだけ2年続けた。外国人以外の有名人も多かった。例えば、プロ野球、南海ホークスの当時の鶴岡監督とチームメンバーは常連だった。また、女優も何人か常連客として来ていた。緑 魔子、江波杏子など、毎週のように来店していた。


次のチャレンジは大学生の頃だった。やはり、表参道の大通りに面したところにある、ある教会、末日聖徒キリスト教会に一時期(夏の)通った。

きっかけは、中学時代からの友人で、私と同じ世田谷の警視庁官舎(住宅)に住んでいた橋本君(後に、やはり警察官になった)の姉がモルモン教の教会に入信しており、英語を勉强するには教会に通った方が、外国人と接する機会があって良いから来ないか?と言われたことで、同級生の弟と一緒に週1から2回のペースで行くことになった。クラスではバイブル中心に先生が読んで、日本語混じりで説明するというもので、バイブルなるものに初めて接したため、なかなか理解するのが難しかった。しかし、先生はハワイ出身のアイーダ・K・メヒカナという30代の女性で南方系の黄金色の典型的なハワイアンに見え、非常に魅力的な先生だった。


一方、クラスがどんどん進むにつれ難解になり、友人の橋本君も私も2ヶ月もすると、さっぱりついて行けなくなった。一度先生に映画に行こうと誘われたが、タイトルも覚えていないが、その一瞬だけは私も橋本君も初めて外国人に誘われて楽しんだのは覚えている。

だが、このことは逆に教会を離れることを遅らせた。最後は「先生、もう僕たちはこれ以上ついていけません」と正直に話すしかなかった。アメリカで社会人になった時、仕事で東京に来るチャンスがあり、教会の前を通ることがあり非常に懐かしく思った時があった。


大学時代に直面した別の一件で非常に衝撃を受けた出会いがあって、このことが私の英語への興味を大きく増幅させた。大学時代は軽音楽(ギター、ラテンミュージック)でバンドを組んでいた。大学3年の頃、高校時代の剣道部の友人から連絡が入り、横須賀でパーティーがあるから演奏してみないかと誘いがあった。

この頃のアルバイト(大学時代)は、ギタークラブの中でラテンパーカッションのグループ中心にギター(エレキ含む)、ベース、ドラム、コンガ、ボンゴ等パーカッション含め、6、7名で小編成バンド、ラ・トレアドール(闘牛士)を組んで、渋谷のスペインレストランで演奏したり、また、個人的には赤坂のクラブ、新世界でダン池田とアフロ・キューバン(ビッグバンド)でボンゴを叩いていた。


高校時代の友人で剣道部員の一人、奥山君に誘われて行ったパーティーは横須賀という土地柄、米軍ネイビーの人が多く来ており、私の友人の奥山君がマネジャーごとく入店客の外国人を英語で案内したり、紹介したり、会話して招待していた。私には非常にショックだった。高校時代はもちろん、大学時代も彼は英語を話すことは知らなかったし、このパーティーでの彼のマネジメントの姿は非常に輝いて見えた。彼に言わせると、横須賀育ちだから米軍の人と接する機会が多くあったからだという。今、私は日本で米軍相手に食品の販売をして生計を立てていることが不思議でならない。


その後は、転職してアメリカ留学を目指すことになり、仕事をしながら留学準備に入った。


 
 
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