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Vol.021 Pepperdine University(ペパダイン大学)在学中のアドベンチャー

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  • 2023年11月12日
  • 読了時間: 8分

更新日:2023年11月19日

村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記- Vol.021 Pepperdine University(ペパダイン大学)在学中のアドベンチャー



アドベンチャー1ーホモは意外といい男だった



英語の勉強のためにと思い、いつものようにサンタモニカ通りを地図を片手に歩いていた時、小さな画廊の前を通った。元々絵画が好きだったこともあり、この画廊に足を踏み入れたところ、50から60代の白人男性が話しかけてきた。「日本人ですか?私は日本人の友達がたくさんいます。あなたは何をしているのですか?」と聞くので、私は「英語の勉強をしに来ました。」と答えたところ、「この画廊は私のものです。もう閉められます。今からコーヒーを飲みに行きましょうか?少し待っていてください。」と言って店の奥へ行き、再び出てきた時は上半身は真っ赤なポロシャツで、下は真っ白なズボンで、飾りの付いた白い靴といういでたちだった。

「その前に、私は少し汗をかいたので、家に戻ってシャワーを浴びたいのですが、良いですか?それから、コーヒー飲みに行きましょう。そしてディナーの後で映画に行きませんか?」ここまでは非常に流暢な日本語が続いた。この時、私はこのタイプの人が例のゲイだと気付き始めていたが、日本食のディナーに行こうと言われた時は、欲が出て、よし、食事までは付き合ってみようと思い、彼の家まで着いて行くことにした。画廊に横付けされたのは、赤と白のツートンカラーのキャデラックだった。

この時点で私の勘が、ほぼ確信に変わった。そして、彼の家(マンション)に着くと、更に確信が増した。彼はドアを開けっ放しでシャワーを浴びながら私に話しかけてきて、隠そうともしない。アメリカ人は開放的だとは聞いていたにせよ、おかしいと思った。シャワーの後、彼は日本人の名刺を何枚も何枚もテーブルに並べ、この人はここに何日も泊まっていた。この人は日本からビジネス出張で来た人で…。と語り始めた。一体何人が本当に犠牲になったのかわからないが、もう間違いない。ディナーだけ付き合って、その後は理由をつけて帰れば良いと思い、夕食に出かけた。「レストラン日本」というウィルシア通りにある、いわゆる高級日本食レストランであった。

この前をいつも歩いて通っていたので、何が食べたいのかすぐに決められて、カツ丼を注文した。彼はチキン照り焼きを注文した。日本ではあまり見ないメニューだが、アメリカ人は日本食だと思っている。レストランを出て、サンタモニカに戻り、ある場所で「今日は思い出したことがあって、映画には行かれない。」と言って、グッバイをして別れた。

余談だが、日本人男性はアメリカ人から「カワイイ」と見えるらしいので、そのような男性に声をかけられる確率が高い。アメリカではアルコールを購入する時、童顔だと身分証で成人かどうか年齢を確認される。TMIでアメリカに研修でお連れするツアーの参加者の数名は、毎年、各地のスーパーマーケットで身分証の提示を求められるのを目撃するが、その人達は大抵40代だったりする。



アドベンチャー2-学費を稼ぐ方法



学費節約のための突飛な計画が失敗した。UCLAからペパダイン大学に転校した時の一番の心配の種は学費が上がることだった。当然のことながら、ペパダイン大学は私立大学なので公立大学よりも学費が高い。果たして払っていけるのだろうか。と、常に頭をよぎった。アルバイトをしていると言っても、日系のスーパーマーケットで週3日、ガーデナー(庭師の助手)の仕事が週3日では全然足りない。家からの仕送りも頼んだが、1970年代当時は日本もまだ貧しく、ドルの交換レートは1ドル365円から300円程度で、日本から海外への送金は、確か15万円程度迄にコントロールされていて、そんな金額をなかなか頼めなかった。

私の家は父親が警察官で決して裕福だとは言えなかったので、送金の願い出は厳しかった。そもそも日本出発前に少しでも会社勤めを経験していたので、アメリカに行ったら全て自分の稼ぎでやると、啖呵を切って来た関係もあり、できるだけ親に頼らないようにと思っていた。この月謝問題はペパダイン大学卒業後も、ローンの返済という課題を残して後を引くことになった。

このことが(月謝への対応)が私のキャンパスライフで、2つのことに駆り立てた。1つは、ベトナム戦争へ志願しようと考えたことだった。当時アメリカは南ベトナムを支援して戦っていた。私に周りの日系人の友人数人がベトナム戦争に行くための訓練を毎週末、近くの連邦ビル、州ビルの広場で行っていた。アメリカは既に徴兵制度はなくなっていたものの、自らの志願で行く場合は、その後の人生において大きな利益が得られると聞いた。中でも大学の学費は卒業まで無料となる「BIビル」というものがあって、これが彼らの一番のモチベーションだった。

私はすぐに、例え卒業が1年や2年遅れても「月謝が無料」は最大の魅力だと思った。加えて、卒業後の永住権も確実にもらえる。そこで、私は早速このことを相談すべく、スチューデント・アドバイザーのジェームズ・アトキンソン教授に会いに行った。彼は一通り私の話を聞いた後で「月謝と永住権のために、良くて片手、片脚と交換するのか、よく考えなさい。」と言った。更に「人種差別は少なくなったというが、日本人が志願するとなると、最前線は間違いない。片手、片脚では済まない。地雷どころか、枯れ葉剤を浴びて、その後の人生を苦しむことになるのは目に見えている。そんなところに君を送ることはできない」と言われた。

アメリカにおいてベトナム戦争は支持されなかった。映画「プラトーン」でもお馴染みの「ベトナムシンドローム」が生まれたのだ。それでも、日系の友人たちは志願兵として訓練に参加しているのを見ると複雑な気持ちになった。ちなみにベトナム戦争は1975年、丁度私の卒業したジョンソン大統領の時に、アメリカがベトナムからの撤退を決めた。


私は現在、日本の各地にある米軍基地(嘉手納、横田、横須賀、三沢基地などのスーパーマーケット{Commissary=カミサリーと呼ぶ})に日本の食品メーカーの食料を供給する仕事をしているが、嘉手納基地のTMI社員の中に、かつてマリンコープ(海兵隊)で働き、引退した元兵士で「トンネルラット」チームのメンバーだった人がいて、今だから面白おかしく話をしてくれるが、トンネルラットの役割はベトナムで北へ向け、人がやっと1人通れるトンネルを掘り進み敵陣の中に入り、爆弾を投げる(放火する)部隊で、小柄なアメリカ人が選ばれていたという。「日本人だったら(小柄だから)、まさに最前線間違いなしだっただろう」と彼に言われた。



アリゾナ州、セドナ渓谷に金を求め、ドライブした。



ペパダイン大学在学中に起こした行動がもう一つある。西部劇映画さながら「金=Gold」を求め、アリゾナ州へ旅したことである。Westロスアンジェルスは、今ではリトル大阪と呼ばれるようになったところにある日系スーパーでアルバイトしていた時に、日本から来ていた知り合い(トシと呼んでいた)から、金を採りに行くから一緒に行かないかと誘われた。たまたまガーデナーの仕事で成功していた井波さんという日本人がいて、その人は顔は日焼けして、まるでメキシカンの様な人で、大きなアメ車のインパラ(GM)の新車に乗っていた。その車には5人は乗れるからと、仲間を募っていて、私を含め4人が集まった。


私は西武劇の原風景に触れられるという思いもあって参加することにした。出発日は食材の他にスコップ、バケツ、網(布地の網)等に加え、ライフル銃を一丁、トランクに入れて、2泊3日でセドナ渓谷に向けて出発した。セドナ渓谷は映画でしか見たことのない西部劇の景勝地で、今やアメリカでもセレブたちが夏の別荘地としている場所で、日本ではあまり知られていない。そして、セドナへ向かう時にハプニングに見舞われた。

カリフォルニア州からアリゾナ州近くを走っていた時に、我々の車が新車で4人も乗っていたので、違法入国のメキシカンだと思ったらしく、ハイウェイパトロール(州警察)に追われたのだ。運転していた井波さんは、振り切ろうとしてスピードを上げた。アメリカでポリスに追いかけられて逃げたら、必ず撃たれると聞いていたので、気が気でなかったが、川を越えたところで遂に追いつかれて止められた。神妙にして車の中で待っていたが、ポリスが来てドライバーズライセンス、身分証明書を見せろという。彼らはカリフォルニア州のハイウェイパトロールだった。2人のポリスから発せられた言葉は意外だった。

You guys are lucky. You’ve already passed the river and in Arizona state. So, we don’t have a right to catch you guys.

(お前達はラッキーだ。既に川を渡ってアリゾナ州にいるから、我々はお前らを捕まえる権利はない)ということだった。この時は井波さんの逃げようという判断は正しかったと思えたが、本当は何が起こるかみんな心配していた。


セドナではモーテルに2泊3日泊まった。丸2日間、朝から夕方まで、渓谷の中の澄み切った水の中にいて腰をかがめていた。最終的には4人で換金した砂金の価値は500ドル程度だったから、1人120ドルとはロスアンジェルスでアルバイトしたガーデナーの1週間分の100ドルを超えていたので悪くはなかった。

ガーデナーの仕事は一日中、木の上ばかり見ているので首が痛くなり、砂金採りは腰を痛めてしまう。肉体労働は本当に辛かった。しかし今は身体を使う以外、何もできない。日系一世、二世がロスアンジェルスで成功を収められたのも、強靭な肉体と知恵があったからで、我々日本人留学生は、彼らの成功の上で支えられていると感じた。

余談だが、ガーデナーのアルバイトで首が上を向いている状態で固まってしまい、授業中に教授から「何故、君は上を向いているのか?」と言われたこともあった。


またまた余談だが、日本人に「モーテル」と言うと大抵悪い反応をされる。アメリカで言うモーテルとは文字通り「モーターホテル」のことで、つまり駐車場が付いている宿泊施設のことだ。車社会のアメリカで長距離の旅行や出張でも便利に使えるので、TMIのビジネス出張やツアーでも、よく利用する。

Country Inn & SuitesやHoliday Innのようなチェーンのモーテルだと、朝食がバフェで付いていてマフィンやロールパン、フルーツにカリカリベーコンやコーヒーやフレッシュジューズが自由に食べられるので、TMIのツアーの参加者からは通常のホテルよりもかえって好評だった。

 
 
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