Vol.003 ピーター・ドラッカー先生と対面(後編)
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- 2022年1月13日
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更新日:2023年9月24日
村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.003 ピーター・ドラッカー先生と対面(後編)
2週間かけて約350ページある「Management」を何度か読み返した。この本はアメリカの出版社から1973年に出版されたばかりだったから、日本ではまだ翻訳されていないピーター・ドラッカーの最新書籍であった。それだけでワクワク感もあって読んでいた。何度も何度も読んだ。ページにすると1,000ページを超えるほど読んだ。訳しながらというより、内容を理解するようにして読んだのが楽しかった。そして、2週間後の本番がやってきて、2時間のセミナーは、あっという間に終わった。
セミナー後、参加者約30名はドラッカー先生と名刺交換をしていた。このメンバーの中に私の将来へ導く、決定的なビジネスマンが何人か加わっていた。食品雑貨の製造業、繊維関係、アパレル企業、そして流通企業の何人かが、学生の私の所に寄って来て自己紹介してくれた。中には日本の流通業トップの人達もいた。いずれの人も「日本に来たら、是非うちの会社に寄って下さい」と言ってくれた。そして、後に言葉通り彼らを訪ねることになった。更に彼らの会社とTMIは長い付き合いとなり、おかげでTMIは設立から順調に走ることができたのである。ピーター・ドラッカー先生は、その後クレアモント大学院に戻り、それ以降はお会いしていないが、常に気にかけてきた。彼は2005年11月に亡くなった。
ピーター・ドラッカー先生は、私のアメリカに来るという夢を叶えてくれた大恩人である。その後、何かにつけ、この経験をみんなに話してビックリさせている。ドラッカー先生はビジネスの世界では神様みたいな人であるから、「え?!あのピーター・ドラッカーに会ったの?」「いや、彼の通訳をやったんだ」という会話になる。
確かに、私の中ではTMIの仕事を行うたびにピーター・ドラッカーが背中越しに見ている気がしている。私がアメリカに留学するきっかけとなったのが、ドラッカー先生の書いた「断絶の時代」だった。この本に触発されて、須賀川精機(私達が立ち上げたSEIKO第2精工舎のピンレバーウォッチ=スイスの時計と価格で戦うための格安腕時計製造工場)の鈴木工場長の後押しで、アメリカに行く決心をした。更に、両親からの援助もしてもらえて初めて実現した。それに、トヨタの自動車販売店の支店長をしていた従兄弟の村上良三さんが、私の愛車”トヨタマークⅡ”を高く買い戻してくれたのも大きな助けとなった。これらの支援がなかったら、LAまでの片道切符も買えなかっただろう。
さらに時代の後押しもあった。1970年代は日本が大きく動いた時だった。学生時代、何度か訪れた沖縄はまだアメリカの領土、植民地だった。そして、アメリカ行きのビザ(VISA)が書かれたパスポートを初めて手にして、日本にある”アメリカ”に初めて演奏旅行に行った。その後、1972年に沖縄がアメリカから日本に返還された。
戦後の沖縄は本当に荒んでいた。国際大通りは今日の様に舗装もされておらず、車が通るたびに、いつも土埃が舞っていて、すぐに顔が土埃まみれになってしまう。演奏を終えてホテルに帰ると、まず顔を洗った。国際大通りから、一歩裏の通りに入ると、ゴザで入口を塞いだ日本人の娼婦の仕事場が何軒も並んで客を呼んでいた。
当時は返還前だったが、本土との差が大きすぎて非常に心を痛めたのを覚えている。そして今、私はこの沖縄の米軍キャンプを相手に取引を行っている。
アメリカ国防省食糧局(DeCA)の依頼を受け、日本の米軍キャンプの中にあるカミサリー(一般にはスーパーマーケット)に食糧を卸している。顧客は全てアメリカ人の軍関係家族、海軍、陸軍、空軍に海兵隊である。また、我々の仕事で採用している人も全て軍関係の仕事をしていたアメリカ人で、日本にいてもアメリカで商売している様なものだ。話す言葉も英語のみで、時々、アメリカ人の片言の日本語に付き合って笑っている。だから、沖縄のことは常に気にかけている。