Vol.012 鈴木工場長との出会い、意外な知り合い - その弐
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- 2022年6月13日
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更新日:2023年5月3日
村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記-Vol.012 アメリカへ出発まで(1) 鈴木工場長との出会い、意外な知り合い - その弐
1967年春、法政大学経済学部を卒業し、腕時計製造メーカーに就職した。初めて上司と呼ばれる人となったのが、福島県須賀川市の工場に赴任してきた鈴木工場長(本社の課長)だった。上司というよりは工場全体の責任者だったため、実質的な社長ということになる。時々本社から出張で来られる人たちも、その様な態度で接していた。会社では年の差が倍もあるような人と話す機会は残念ながら多くはなかったが、たまたま工場長も東京から来ており、社宅が決まるまで私のいた独身寮の隣の部屋に一時は間借りしていたため、夜になると食堂などで話す機会もあった。
私は須賀川精機に入社して、一週間もしないうちに福島の須賀川工場に転勤を命じられて、何も考えることなく東京上野から列車で5時間、当時はまだ新幹線はなかったの須賀川駅、郡山市の一つ前に到着した。
須賀川精機という新しい会社は当時、ピンレバーウォッチという安物時計(格安時計のアルバ、パルサーブランド等、スイスの安物時計に対抗する腕時計を製造する目的のために建てられた。そして、私はその工場の立ち上げメンバーの一人として技術系の人たちに加えられ転勤して来たのだった。従って、事務系の仕事が何を仕事とするのかがよく分かっていなかった。
人事課が何をするのか。総務、庶務課が何の仕事をメインにするところなのかが分からないまま出勤していた。しかし、何が当時優先課題かはすぐに理解した。事務系社員として当時の最優先業務は人材募集のため上司の後ろについて須賀川市、郡山市、更に近隣の田舎の中学校、高等学校に訪問し、会社のパンフレットを渡して説明し、来年度の新卒予定者を何人、何人送ってくださいと言って頭を下げて回る仕事だった。
時代は日本のバブル経済が始まっていた。中学、高校の若い働き手を集めるのも、まさに戦場だった。市場は”金の卵”を探すようなものだった。募集のための会社案内も自分でデザインして持参した。表紙が”S”マークの中に腕時計を入れたデザインで、意外と会社の評判も良く、その後も長く使われていたようだ。
人材獲得にも競合が結構あった。こんな須賀川市、郡山市でも既に電気関連の企業が既に多く進出しており、皆、若い人材を求めていた。NEC、パナソニック(当時はまだ松下電器)、日立、東芝、コパル電子と結構競争があったので人材募集と言っても、何か一つアイディアが必要だった。
人事担当の上司、長田(おさだ)取締役と一緒に毎日のように福島交通(国際興業バス)、県営バス、そして時に自転車で乗り付け、汗をかきかき、小道を走り、中学校、高等学校を訪ねる日々が続いたので、須賀川市が大都市に見える(思える)程だった。
新卒を集めるのはもちろん大変だが、臨時工を集めるのはもっと大変だった。年に何回かある(1~2回)農閑期の僅か2~3ヶ月のみ働く臨時工を集めるのだが、20~30名集めるのは非常に苦労した。農家に直接一軒一軒訪問し、働ける人はいませんか?と訪ね歩くのである。なかなかいる確率が小さい。一日歩いて見つからないと、田舎の山歩きに山菜野菜、こごみ、わらびなどを採って寮に持ち帰るなどして気を紛らすことも多かった。寮のおばさんには大変喜ばれ、それが一番だと思える時もあった。
時には普段週末に飲み遊んでいる行きつけの郡山の繁華街のバーまで足を運び馴染みのホステスに昼間だけでも働いてくれと頭を下げて応募してもらったケースもあった。よく長田重役に「あの派手な髪の人たちは何だ?」と訊かれ、郡山のホステスだと説明して納得してもらった。
臨時工採用の件で起こった事件 - 阿部 定 採用事件 -
臨時工採用の件で起こったことだった。ある時、上司の長田取締役が血相を変えて私のところにやって来て「あの渡辺貞子を雇ったのは誰だ」と言った。そこで私は「私ですが、何か不都合でもありますか?」と聞き返すと「あれが阿部 定だと知っていたのか?」と言われたが、私は知る由もない。阿部 定事件なるものを知っている人は既に少数派で、私も後に聞いて知ったのだった。それも私の会社の顧問をしていた鈴木弁護士から聞いて初めて知ったのだった。
鈴木弁護士によると、彼が福島県会津若松の裁判所で阿部 定を起訴した本人だったと聞いた。また、彼女は本当に純粋な人だったという。阿部 定は模範囚だったため、予定の刑期より早く出所したということらしい。そして、私がたまたま募集していた臨時工に応募して、私が面接をして採用しただけのことだった。臨時工の採用はほとんど私が任されていて、私が彼女をインタビューした時は、ごく普通の婦人で、優しそうなおばさんという雰囲気だった。もちろん採用時点で、私は阿部 定事件なるものも知らなかったし、一人でも人材が欲しい時だった。彼女は1年ないし1年半位働いたが、仕事の姿勢、態度も良く、他の従業員とも何の問題も起こさず、極めて優秀な臨時工だったと言える。
長田取締役は一人で気をもんでいたようだったが、私は問題ないと決めていた。正社員でもないし、とにかく一人でも欲しい時だったが、一応対応について会議が行われた。しかし、鈴木工場長の「既に刑期を終えて正式に社会に復帰している人だから、普通の人と変わらない」という一言で不問に付すこととなった。
彼女は会社を辞めた後、会社の近くで定食屋さん(小料理屋)をオープンさせた。(姪っ子と言っていたが、多分)娘さんと思われる若い女の子と一緒に働いていたが、大変評判が良くて繁盛していた。私もよく食べに行ったが、他の従業員もすぐに常連客になっていた。