Vol.024 アメリカのハンバーグからステーキへ
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- 2024年4月14日
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村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記- Vol.024 アメリカのハンバーグからステーキへ
前回のブログでは、留学時代にハンバーグによって生活が助けられた話をしたが、今回はハンバーグからステーキへ、そして牛肉を生産するアメリカの牛について思いつくまま話してみたい。
特に私が牛についてこだわるのには2つの理由がある。
第1に自分自身がアメリカンステーキが大好きで、今でも自分にとって最も食べたい料理だからである。第2にTMIの創業当時の短い期間であったが、南カリフォルニアのチノ市からアンガス・ヘレフォード等の牛を購入し、パンナムアメリカン航空の子会社、フライングタイガーの727をチャーターし、モーゼスレイク(モンタナ州)から日本に売っていたことがあるからである。
さらに加えて言うならば、私が育った中学生の頃はアメリカ映画といえば、ララミー牧場、ローハイドを見て、大西部で牛を追う生活を見ていた憧れもあったかもしれない。
TMIを創業し、特にニューヨークに事務所を開設すると、アメリカに来られるクライアント企業の方々が多くなった。そして、日本で受けた接待のお返しとなると、ハンバーガーショップ、ファストフードとはいかなくなり、フランス料理やイタリアン料理やスペイン料理、地中海料理(シーフード中心の)と選択肢がある中で。私は常に第一候補に掲げたのはステーキハウスだった。
アメリカは牛の国だから、どの都市にもステーキハウスは良いレストランが多くあった。それに値段も公平だった。アメリカの接待は日本のように食事の後のコースは何もなかったのが幸いだった。後日、日本のようにカラオケバーのようなものがロスアンジェルスやサンフランシスコにできていたものの、アメリカにまで来てカラオケに行きたいという人もいなかった。
アメリカで私がよくご案内したステーキハウスのいくつかを紹介しよう。ニューヨークが中心になるが最もよく利用したのはRuth's Chris(ルース・クリス)、Gallager's(ギャラガーズ)、Keen's(キーンズ)、そしてPeter Looger(ピータ・ルーガー)。さらに他の都市では、例えばシカゴのMagnum Steak(マグナム・ステーキ)、ミネアポリスのMurray's Steak(マレーズ・ステーキ)、そして全米各地に展開するローストビーフの専門店、Lawry's(ローリーズ)もよく利用した。
Ruth's ChrisもPeter LoogerもLawry'sも、今では日本でも出店しているので、珍しさは薄れたかもしれないが、レストランもステーキのクオリティも、いずれも素晴らしいが、それぞれに特徴がある。
Ruth's Chrisは客のほとんどがビジネスマンで、ノータイ運動の中、いつもスーツ姿の客が多い。レストランの造りもアメリカの伝統的なニューイングランドの家のリビングルームをモチーフにしたデザインである。メニューはどれも間違いなかったが、特に店の売りは、厚さ4~5㎝もあろうかというリヴアイ・ステーキのミディアム・レアだった。重さは300~400グラムもあるが、火の遠しが繊細でかつ正確であった。もしも、ステーキの焼き加減が頼んだものと違うと感じたらウェイターに言ってすぐ交換できる。(これはどこのレストランでも行っている。)
さらに付け合わせのオニオン・グラタンスープにはチーズがたっぷり入っていて最高に美味しかったのだが、残念ながら辞めてしまった。ステーキ目当てではあるが、動機の半分はこのスープが目当てでもあった。日本でこのオニオン・グラタンスープを探したが、Ruth's Chrisと同様のクオリティで同量のチーズ量のスープを出すところは、未だに見つからない。(しかし最近、笹塚で、チーズは少ないが、このスープと同じ料理法で提供しているイタリアンレストランのキャンティを見つけた。)
次によく利用したレストランはGallager'sである。マンハッタンのミッドタウン(ホテルの集まるところ)の中心にあり、アクセスが良く、カジュアルな雰囲気でアメリカ西部劇時代のレストランのイメージである。ちなみにパトリシア・コーンウェルの小説にも名前をちょっと変えて出てきた。各種ある商品の中でも、この店の売りは分厚いフィレ・ミニオンとポーター・ハウス(Tボーン)である。特にポーターハウスは、Tボーンでサーロインとフィレ、中でもシャトーブリアン(フィレの中でも中心にある最高の品質)が合わさった部分が人気が高い。
シャトーブリアンとはフランスの政治家の名前で、フィレの最も中心にある柔らかい、美味しい部分を食べていたことから名前がついたと言われている。このGallager'sの肉は、どれも大きく通常400〜500gのステーキのところ、Gallager'sでは500〜700gもあるから注意が必要。店の入り口に熟成ルームがよく見える作りになっていて、プレゼンテーションも素晴らしい。
次に利用したのはKeen'sで、アメリカ企業のトップクラスの方々がよく利用する値段も高いレストランで連れて行く人にもよるが、それなりの地位の人を接待する時に使うレストランである。ステーキの全てが美味しく、最後にシガータイムがあり、店がお客に最高級のキューバンシガーを振る舞っている。天井にはパイプが何百と飾られている。
そして最後になるが、ニューヨーク市でもマンハッタンの外のブロンクスにあり、130年以上の歴史を誇る、Peter Loogerがマンハッタンにも出店し、後に2020年には日本の恵比寿にも出店した。この本店は、マンハッタンから車で約30分のブロンクスだが、接待用というより、本当に肉好きのためのレストランという感じである。店の雰囲気は地方の普通のレストランで、長いテーブルの両サイドに着席し、真ん中の大皿に山と盛ったステーキが出されるのが売りで、何枚食べても良い。
よくベースボールプレーヤーが利用することから、元ニューヨークヤンキースの松井秀樹選手が利用していたことで日本でも知られるようになった。しかし、接待で行くには車を用意する必要があり、その際にはレストランの高級感がなく落胆する人もいるかもしれない。
ニューヨーク以外の都市で、ステーキハウスに案内する時もあるので紹介しよう。仕事でよく行くロスアンジェルス、ダラス、シカゴである。テキサス州のダラスはアメリカの肉文化の発祥地である。ダラスで有名なレストランと言えば、Trail Dust(トレイル・ダスト)というステーキハウスがある。ウェスタン時代の街の中心にあり、西部劇のレストランの入口を入り、ロングテーブルに向かい合わせで着席する。ステーキサイズが大きくて、びっくりするが味は良い。そしてカウボーイスタイルの演奏者がウェスタンを演奏し、西部劇の雰囲気満点である。ここは、ネクタイをして行くとハサミで切られて壁に飾られるので面白がって、お客はわざとネクタイをしていく。
シカゴにはMagnum Steakがある。マグナムは大きい、激しいという意味で、ステーキはどれも大きい。マグナム銃になぞらえたネーミングのレストランである。レストランの最後の紹介になるが、忘れてはならないのはLawry'sで、ローリーズ・プライムリブ・ローストビーフの専門レストランである。本店はロスアンジェルスで、アメリカにはニューヨーク、シカゴ、ダラス、ラスベガス、サンフランシスコ等々に展開しており、日本にも早くから進出して、赤坂(改装済み)と恵比寿に出店している。
プライムリブの専門レストランで、イギリス人好きのローストビーフ、ステーキの専門店である。ステーキはウェルダン、ミディアム、ミディアムレア等の3種から大きさを指定し、テーブルのすぐ前にワゴンと共にシェフが登場して、目の前でカットして提供する。サラダも目の前でLawry'sオリジナルドレッシングに和えてサービスしてくれるのだが、このドレッシングはとても美味しくて、アメリカではどのスーパーマーケットでも買える。
ステーキにはマッシュドポテト、コーン、スピナッチ(ほうれん草)、それとヨークシャープディングが付け合わせで提供される。私はこのレストランが大好きで、日本でも最低でも1年に1度は行っている。
以上が、私がよく接待に利用していたステーキレストランである。ステーキレストランではワインが付き物ではあるが、グラスワインでは一般的なワイン、例えばシャドネのようなものが用意されているが、私の最も好みのワインはジョーダン(アレクサンダーバレー)のカバネースブニオンが好きで、特に2010年のものが良い。このワインはレストランではあまり置いているところが少ないが、日本では新宿のパークハイヤットホテルの最上階にあるニューヨークグリル(ステーキハウス)が扱っていたが、このワインは決して安くはない。ニューヨークグリルでは、種類にもよるが1本2万円、2万5千円、3万円という値段が付けられていた。値段から言うとオーパスワンに続く、そしてロバートモンダビーワイナリーのロバートモンダビープレミアムのワインと同じ値段であった。
話をテキサス州に戻そう。ダラスとフォートワースが30分離れたところにあることから、ツインシティと呼ばれ、空港はダラス・フォートワース空港と名付けられている。
ダラスは近代的高層ビルがダウンタウンの象徴だが、フォートワースは未だウェスタン色が濃く残る西部の都市である。西部劇の時代、1880年代、このフォートワースが中心で発展し、ダラスの北150kmのところにあるアビリーンからカウボーイが鉄道のあるところまで、1,000kmの道のりを牛1,000頭、2,000頭を追いかけて旅をした出発点でもあった。
つまり1960年に日本で見たアメリカの西部劇、テレビシリーズのローハイドの出発点であった。日本では丁度、私が中学生時代だったと思うが、このローハイドとララミー牧場を見てアメリカの牛文化に触れた。
ララミー牧場は1860年代のワイオミング州、ララミーが舞台で、父親ゆずりのシャーマン牧場の経営者で大陸横断の駅馬車の中継所を行っていた経営者ジョン・スミス、両親をインディアンに殺されたマイク坊や、未亡人のデイジーおばさん等の人生が、牧場を舞台に繰り広げられる友情と正義の西部劇だった。
一方、ローハイドは同じ1960年代の西部劇シリーズで、デミトリー・ディオムキンが作曲した「ローレン、ローレン、ローレン。。。ローハイド♪」で始まった。歌ったのはフランキー・レーン。カウボーイを指揮するボス(エリック・フレミング)の心構え、リーダーシップ、副隊長にロディ・イエーツ役のクリント・イーストウッドが演じていた。
アビリーンからカンザス州の鉄道のあるところまでの途中、ウィッシュポーンが焼いた丸かじりのステーキ文化に見入った。牛は1日に10kmから15kmしか進まない。この間に気候の激変に対応したり、牛泥棒と戦ったり、ギャングと戦ったり、内部抗争があってりして、毎回隊長のギル・フェイバーさんのリーダーシップで解決していくストーリーが語られた。
このテレビシリーズの指導力を参考に京セラの創業者、稲盛氏が若手の企業家向けに教育セミナーを行っていると聞いた。これら1880年代のアメリカ西部劇はアメリカ文化を知る上で、大変貴重だったことは今だから思うことで、テレビを見ていた60年代はそのようなことは考えずに、単に拳銃での撃ち合いや西部の争いを無邪気に見てアメリカンカルチャーに浸っていた。
その他にも映画では、かなり後になって、ジョン・ウェイン主役の「アラモの砦」「リオ・ブラボー」「赤い河(レッドリバー)」も見たし、バート・ランカスター主演の実話をベースに作られた「OK牧場の決闘」等にのめり込んでいった。アラモの砦は、テキサス州がメキシコから独立した当時のことがよくわかった。「リオ・ブラボー」は、主役がジョン・ウェインだったが、この映画のハイライトは保安官事務所の若手人気歌手リッキー・ネルソンのギターで、ディーン・マーティンが「ライフルと愛馬」を歌う場面だった。この歌は私の中では最も好きな曲となっている(メキシコ音楽のJollona(ジョローナ)と共に)。
「OK牧場の決闘」の舞台はアリゾナのテューソンで、仕事で出かけた時にトゥームストーンという街を訪れたことがある。いまだに西部劇の街という感じで、毎年、全国から観光客を呼んでいる。この映画は1881年の実話に基づいて作られた。主演のバート・ランカスターが保安官、ワイヤット・アープ、カーク・ダグラスが友人の賭博師、ドッグ・ホリデー役で、彼らの友情で、牛泥棒の一味のクラントン一家と戦う決闘シーンが一番の見どころである。この映画もローハイドの作曲家、デミトリー・ティオムキンの作曲で、「オーケー・コラール。。。」から始まる。この歌もローハイドの歌手、フランキー・レーンが歌っていた。
そして、この映画の主人公、ワイヤット・アープはその後、カリフォルニア州、ロスアンジェルスに移住し、ハリウッドに映画の街が誕生する頃になると、西武劇映画の監督、ジョン・フォード(ジョン・ウェインの西武劇を多く撮影した)のアシスタントとコンサルタントの様なことをしていたという。ワイヤット・アープは1929年にロスアンジェルスで死亡した。従って、アメリカの西部劇は、実際には1920年代には終わっていたことになる。
1834年のアラモの砦事件から始まり、1840年ウィルソン大統領の西武開拓の国是(マニフェスト・デスティニー)という、西への開拓は天から与えられた指令と時代、イギリスの西部の国土の不法獲得の1880年代を経て、ビーフ・トラスト会社ができ、大陸横断鉄道ができ、牛がカウボーイから鉄道に乗せられ、シカゴ(当時の「世界の食肉市場」と呼ばれた)に送られる。
1881年にはOK牧場の決闘が行われ、ワイヤット・アープが1900年にはロスアンジェルスに移り住む。ここでアメリカの西部劇は終わったのかもしれない。。。
したがって、西部劇の歴史は約70年弱だったような気がする。そして、さらに奇遇なことは、日本から江戸時代に漂流民としてアメリカ商船に助けられ、アメリカに渡り、アメリカで教育を受け、アメリカ市民となったジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵が、このアメリカの西部劇の中にいたことで、彼はアメリカの南北戦争時、1860年にはアメリカの第16代大統領にも会見していたことが不思議でもある。
一方、彦蔵より10年前に同じく漂流民としてアメリカの捕鯨船に助けられ、ニューベッドフォードに渡り、ホイットフィールド船長の息子として教育を受け、後にゴールドラッシュ(1846年以降)で、サンフランシスコ、サクラメントに渡ったジョン・万次郎は、アメリカの鉄道(大陸横断鉄道)にも乗っていた。彼はまた、日米通商条約が結ばれた後、咸臨丸で勝海舟に付き添って通訳としてアメリカに再び行っている。アメリカ西部劇の時代に、このようなことがあったことは、まさに小説より奇なりである。