Vol.018 UCLAからPepperdine University(ペパダイン大学)への転校
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- 2023年10月9日
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村上回顧録(禁断のビジネスエンターテイメント)留学記- Vol.018 UCLAから、ペパダイン大学へ転校。
Woodyが言った。「私の故郷の友人が、スチューデント・アドバイザーを務めているペパダイン大学というのがある。この大学は学生数が2,000人から2,500人程度の新しく小さな大学だが、最近、LAから北へ約30分の町、Malibu(マリブ)海岸沿いに新しいキャンパスを開いて、学生も徐々に増やしている。それでも、1クラス12人から15人程度で、教授と学生の比率が全米でも、最も効率が良いと言われている。1クラスが少ないため、友人もできやすいし、留学生にとってはますます英語を学ぶのに適していると思うが、一度、彼、Steve Atkinson(スティーブ・アトキンソン)教授に会いに行ってみないか?」と誘われた。
アメリカには、実に1,700以上と言われる大学の数があるらしいが、日本にいた当時はそれらの情報すら入ってこなかった。なので、ごく限られた情報の中から選ばなければならなかったし、カリフォルニア州というと、必ずUniversity of Southern California(南カリフォルニア大学)、University of California at Los Angeles=UCLA(州立カリフォルニア大学ロスアンジェルス校、UC Berkley(州立カリフォルニア大学バークレー校)そして、Stanford University(スタンフォード大学)など、一部の有名校の名前しか思い浮かばなかった。日本からアメリカの大学へとTOFEL(トーフル)のスコアを送って、入学願書を取り寄せた時は、主だった州の30校を選んだが、それらは本当に少なく各州で知られた大学ばかりだった。
例えば、テキサス州だとオースティン市にあるTexas University A&M(テキサス工科大学)、イリノイ州のChicago University(シカゴ大学)、University of Arizona(アリゾナ州立大学)、Nevada University(ネバダ大学)、San Fransico University(サンフランシスコ大学)等々しか思い浮かばなかった。
後にわかったことだが、カリフォルニア州だけでも、UCLAレベルの州立大学、総合大学だけでも、9カ所もあることがわかった。それ以外にも、総合大学レベルではなく、専門大学、例えば(通称カルポリ=California Poly Technical University)のような、工科大学や農業に強いCalifornia State University Davis(カリフォルニア・ステート・デイビス)のようなワインで有名なNapa Valley(ナパ・バレー)にある大学など特徴のあるカレッジと言ってよい大学が10以上あると知った。更にアメリカは私立大学が多く、大部分がキリスト教の、あるセクト(宗派)がスポンサーとなっている私立大学がある。カリフォルニア州以外には東部のハーバード大学、コロンビア大学、ペンシルベニア大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)など、一般的にIV(アイビー)リーグと呼ばれる大学があるが、私には更に遠くの大学に思えた。カリフォルニア州は、実は全米トップクラスの大学が2、3あり、カリフォルニア工科大学(カリフォルニアUniversity of Technology)略してカルテック大学だが、日本ではあまり知られていない。
東部のMITと並び称されるが(ときに全米ランキングでMITや、ハーバードを抜いて、全米ナンバーワン大学に選ばれることも多い)そして、スタンフォード大学がIT産業のメッカ、サンノゼ市にある。
こうして見るとカリフォルニア州だけでも50から100校あるかもしれない。更に州には属しているものの、専門を絞った地域の大学もある。いわゆる働きながら通う大学や、夜間専門のコミュニティカレッジ(大学レベル)も各都市レベルで多く存在する。 これら全て併せると更に増える。アメリカの人口は日本の3倍あるのだから、1,500から2,000校は優に超えるかもしれない。アメリカ人は移動民族で、常に州から州へと引っ越しをしている人種である。だからこそ大学から大学への転校がしやすい制度となっている。つまり、私もその恩恵を受けてUCLAからペパダイン大学へと転校ができた。
スティーブ・アトキンソン教授と会う
ペパダイン大学のスティーブ・アトキンソン教授は留学生のアドバイザーも務めていた。 年齢はWoodyと同じ位だから40代だろう。彼も東部のフィラデルフィア出身というから、恐らくWoodyと同じペンシルベニア大学のWalton School(ビジネスMBAの別称)、ウォートン・スクールかもしれない。
アトキンソン教授とWoodyの旧交を温める挨拶が終わった後、私を交えた話が始まったが、結論は早かった。UCLAからペパダイン大学へのトランスファー(転校)は問題ないが、2つクリアしなければならない(個人的にはもう1つ)という。
1つ目はトランスファーの時期。2つ目は履修科目の調整である。私にとっては3つ目が重要だった。それは何かというと、UCLAは公立(州立大学)で、ペパダイン大学は私立大学である。ずばり学費の差が気になった。しかし、私の心配をよそに話はどんどん進んだ。トランスファーの時期だが、UCLAはSemester(セメスター)といい、1年を2学期で進めていった。ペパダイン大学は1年をTrimester(トライメスター)で3学期に分けていた。(他にはクォーター制といって、年4学期のところもある)当然、日本のように一律で4月に始まるわけではない。なので、入学時期(月日)が異なるため、いかにロス時間(期間)を最小にして転校できるか。そのためには、その年の9月頃が一番良いことで1973年9月に決めた。
第2の卒業までの単位、つまり履修科目の件だがUCLAとの調整と、私の場合は日本の法政大学で履修した科目も評価に入れてくれるというので、スコア(成績)を、英語で送ってもらえるか、すぐに法政大学の経済学部(教務課)に連絡し、すぐに書類による返事を返してくれた。日本の評価(成績の)方法は、A、B、C、D、Fだった。その結果、数科目(経済、ビジネス科目)が免除で助かった。更にアトキンソン氏は「君は日本の大学を卒業し、実社会でビジネスを学んでいたので、あと1、2科目は免除されるだろう。UCLAの卒業単位より大分有利になるかもしれないので、君が考えている学費のギャップは結果としてUCLAで払う予定と同じレベルで抑えられるだろう」と言われ、第3番目の心配がなくなったわけではないが、まず一安心ということだった。
そして決意した。自分の人生の中で非常に大きな決断の一つだった。1973年9月、ペパダイン大学へ無事転校することができた。そして、すぐペパダイン大学の (私にとっても) 新学期が始まった。